しかし「正しい神の姿を知って」、42章で「知識のなさを悔い改めて」「神を主とした」ので、信仰者として神様の祝福を受ける霊的立場になりました。

このようにコロッと霊的立場が変えられるのは、「正しい知識による納得」が信仰の確信に至るからです。そして神様の側も、正しい神の知識を持つ者しか「義」と受け入れません。しかし、クリスチャンにそもそも救霊原理の知識がないなら、その救いを求めることすら思いつきません。

現代において、救いの認識が「罪の赦し(悔い改め)」に留まっているなら、その霊的レベルは「神の子に生まれ変わっておらず」、その人の「神様との霊の関係性」は、「神のしもべ」として仕えるユダヤ教の信者と変わりません。なぜなら、イエス・キリストの「霊性と血の働きを正しく納得していない」からです。 

**キリスト教は、神の独り子イエス・キリストと信仰者とが、「血の契約を交わす」ことによって、神様の祝福の意志(サタンに勝利すること)を、この世で実現する協同体制なのであって、その契約の義務を果たすために、「聖霊」が権威を帯びた道具(助け手)として《 信じる者に論理的に与えられる》のです。

これは契約による互恵の義務関係だからこそ「法的な根拠になる」のです。神様の「憐みにすがって、乞い求めても」必ずそうなる根拠にはなりません。

神様・主イエスが「しなさい」と指示している信仰の行いとは、「契約の義務」として聖霊の働きをこの地上で実現して、「その結果を義と認められて祝福を受け取る」ことです。

この神様の救霊原理の知識に従って、「聖霊を祈り求める」から、聖霊が授けられます。この原理を幼な子のように素直に信じて、自分の信仰を刷新してください。

その結果、主イエスの代行者として「イエスの名」を武器として用いる勝利者になります。すがりつく思いと態度で、「イエス・キリストに何かをしてもらうため」に祈り求めるのではありません。しかしこの点で、極めて多くの牧師・教師たちが、「求める祈り」の本質を勘違いしていて、霊の関係性を「頼れ。すがれ」と教理にして説教していたりします。

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