今度は大きな織物機械を取っ払って「縫製」を始めました。当時「トリコット」という新しい布地が出たので、それを利用して子供服の製造販売を始めたのです。

一九五〇年頃はまだまだ一般的に生活は貧しく、特に子供服の既製服はありません。可愛い子供服など少ない時代でした。機織り工場を改造し、縫製のための動力ミシンを十台くらい入れました。

両親がどこでその新しい布地を手に入れたのかわかりませんが、布を仕入れ、型紙から裁断し、縫い子の女工さんを三、四人雇って、子供服を動力ミシンで縫うのです。本当に豹変です。

私には小学校から帰ると若い女工さんたちとお話したという楽しい思い出があります。母は特に縫い物を習ったわけではないのに、子供服の裁断を上手にこなしていました。今思い出してもすごいとしかいえません。

そうして子供服ができると、母は背中に弟をおんぶして、前には大きな風呂敷でできあがった子供服を包んで抱え、近所の知り合いのお宅に行商していました。

その当時珍しい服地でもあり、色彩も豊かなので可愛いと評判になり、結構売れたようです。もちろんお店にも卸していたようですが、近所の知り合いの方のところを回って行商していたほうが多いようでした。

そのお宅でお茶などいただきながら日本語で雑談して子供服を売るのです。私の家の近くには韓国人はいません。どちらかといえば日本人のお友達が多かったようです。彼女は特に日本語を学ぶこともしていませんでしたが、行商をしながら日本語を自然に学んだようです。

時折現金で払えない方がいて、その借金を兄が取りに行ったことがあったようです。母はどの家に幾ら貸しがあるかをしっかり記憶していて一件も間違いがなかったと、兄がびっくりしていたのを覚えています。兄はその時の母の頭脳明晰さを今も忘れないと言います。

【前回の記事を読む】兄に助けられていた奇跡。「自分の足元に何かあると思い引っ張った、それがお前だった」