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飛燕日記

普通はこういう場合どうするのだろう。食事を奢ってもらったあとにプライベート空間について聞かされれば行くのだろうか。

しばらく考えてみたが、飽きた。

そもそも普通がわからなかった。みんなが人間性だとか協調性と言って足並みそろえていることができないのは今更ではないし、努力でどうにかなるものでもないとも知っていた。モラルという舞台から早々に脱落していたが、演者たちが交わすかけあいは見慣れていたのでマネをする。

「じゃあ今度ご飯にでも行きましょう」

数日後、待ちあわせ場所に来た彼は、さっぱりと髪を切っていた。メニューを指さしながら、鮮度のいい声で店員に注文する。今日来たのは職場近くの中華料理屋だった。店員も客も全員中国人だ。日ごろはルールの中で窮屈を強いられている人たちが、思い思いの自由を謳歌していた。

中華鍋をひっかきまわす金属音と、焦がし醤油のにおい。カウンター席の紳士が蓮華で皿をこそぐのを見て、チャーハンが食べたくなった。明日は休みだから、ニンニクの入った餃子だって食べられる。

「それで俺は我慢できなくなって、親父に飛びかかった。噛みついたんや。腕にガブーって」

どういう流れだったか忘れたが、ゆうすけさんは子供のころの話をした。酒飲みの父親が母に暴力をふるうのを見ていられなくなり、小学生だった彼は腕に噛みついたと言う。

「それは大変でしたね」

私は内心納得した。億劫だと思いながら、道理でまたこの人と会ったはずだ。借りを感じたからでも、大阪弁が面白いからでもない。私と同じ目をしていたからだ。冷たいほどに切れ長の一重。機能不全の家庭で育った人間の共通項らしい。

子供のころは、自分の家庭が世間的にどうかなんて考えたこともなかった。フリーターになった父は職を転々とするのが当然だと思っていたし、そのことを母に責められれば、逆ギレして暴力をふるうのが自然だと思っていた。

それでも、いつも逃げ出したい気持ちになった。そういうものだと自分に言い聞かせても、目の前で母が殴られれば涙が出た。父は子供の泣き声を異常に嫌っており、そのガキを泣きやませろと言って、また母を殴った。私はさらに泣いた。

母はついに

「あんたが泣きやまんから殴られるんよ」

と言って私を殴りはじめる。