飛燕日記
恋は名詞、愛は動詞、セックスは接続詞だと誰かが言った。
私はただれた恋愛しかしたことがないから違いがわからないが。
「この伝言メモ書いた?」
不機嫌な紺青色の声に顔を上げると、上司が見覚えのあるメモを手に立っていた。
「かかってきた時間しか書いてないけど、誰から?」
「相手は」
たしか十分ほど前のことだ。
電話をかけてきた女性は、夏の果実のような声で部署と名前を告げたのだった。黄色い実は太陽に変化し、青空の下で鳴く蝉の声が重なる。それは数か月前に終わった一年で最も暑い季節であり、自分の行ったことのない南国の景色だった。脳裏に展開されるパノラマに目を奪われるうちに、通話は切断された。
「すいません、おそらく、女性のかただったと思うのですが」
「女性って大勢いるからねえ」
上司はため息をついて、こめかみを掻いた。「小宮さんかな。内線だから直接聞いてくるわ」
すいません、と言い終わらないうちに上司は立ち去った。
気配を薄めようと努力しながら、静かに前を向く。目の前の黒い液晶は罪悪感そのものだった。室内にこもる暖房の熱気に、じわじわと首を絞められていく。今すぐにでも逃げ出したい気持ちに駆られた。
今日のようなミスははじめてではなかった。電話の聞きそこないも、会議の会話についていけないことも日常茶飯事だ。
自分でもどういう頭のつくりをしているのかわからないが、頭の歯車が錆びたうえに数個抜けているようで、そこに声や文字が、色や景色に変換されて流れこんでくる。それらは制御できない勢いで押しよせ、会議卓から、自席から、私を別世界にさらっていった。
途方もない現実世界で、私はたびたび居場所を失った。
その時、視線が向けられていることに気がついた。柿色のいたずらっぽい眼差しが遠くの席から向けられている。彼は一瞬だけ手を挙げると、すぐに引っこめた。
彼は、つきあって間もなく半年になる中国人の男性だった。半年という期間が長いのか短いのか、十九歳になって男性とはじめて交際した自分にはわからない。だが、三十六歳の彼が、現地の言葉で仲間たちと会話する姿を見ていると、胸を張りたいような気持ちになった。
だが、この関係について人に話したことはなかった。同僚たちの恋バナに加わりたかったが、彼に迷惑をかけたくなかった。それに、この恋愛を他人から評価された時、私が大切にしているものが価値を失ってしまうような気がした。
彼を否定されることは、自分が否定されることよりも怖かった。彼は私にとって酸素のような、なくてはならない存在だ。もし笑いあうことが許されなくなれば、自分はこの世から存在意義を失って、日々に希釈され、消滅してしまうだろう。だから、低血圧な朝の様子も、普段は三割しか通じない日本語がセックスしたあとは八割くらい通じるようになるということも、自分だけが知っていればいい事実だった。