その日は仕事終わりに、食事へ行く約束をしていた。私が先に退勤し、いつもの場所で待ちあわせる。
「遅くなりました」
中国語のトーンは日本語よりも少し高い。男性の低い声が高いトーンで日本語を話すのはちぐはぐで、その抑揚やイントネーションは木琴が奏でる音楽のようだった。彼は教科書で日本語を勉強していたので、年下の私にも敬語だ。
「今日は、寒い、ですね」
向かったのは会社近くのカレー屋だった。本格的なインドカレーが手ごろな価格で食べられると話題の店で、なぜか看板には冬の山と雪男が書かれている。
ドアを開けると、香辛料のにおいが吹きつけた。顔が一気に熱くなる。店内を満たす陽気なインド音楽や、ステンレス皿がぶつかりあう音を聞くうちに、異国に来たような気分になってくる。
席に着き、食欲にまかせてメニューを広げた。
「これは、辛い、ですか」
「うん。唐辛子マーク五個は、辛いかも」
こういうカレー屋に来るとナンを食べたくなるのだが、焼き上がるのに時間がかかることを忘れて注文してしまう。昼休みに来た時は、ナンが間にあわなくてルーだけ食べて帰った、という話をして笑いあった。
運ばれてきたナンをちぎって食べながら、彼は言った。テレビで流れるインド映画に気を取られ、危うく聞き逃しそうになる。
「え? もう一回言って」
「あなたの、母と、話しました」
にぎやかな音楽の中で、声が鉛のように響く。
「車の中、話しして、保証人の話、反省しました」
「そう」
ゆっくりと息を吐くと、身体から香辛料の熱が引いていった。
「母に、もう、あなたと会わないこと、近づかないこと、プロミス、約束しました。なので、もう、会いません。ごめんなさい」
彼はナンを銀のトレイに置くと、目を見ながら頭を下げた。秀でた額が目の前に来て、また上がる。
その景色を百万メートル先で起こっている出来事のように感じようとした。意識をテーブルから切り離し、週末に外食をしているだけの客になろうとする。
だが、それはできなかった。彼に通じるわかりやすさと優しさを持った言葉で、返事ができるのは私だけだ。ナンを置いて口を開いた。
「オーケー。大丈夫だよ」
彼は少し笑うと、自分が注文したルーを指して、「赤いほうが、辛い、と思う」と言った。私もそれに笑って応じる。