第一章 留学の夢
留学の夢
私は昭和二十八年という第二次世界大戦が終結してまだ八年しか経っていない、まだまだ日本が貧しく、やっと将来に明るい兆しが見えてきた時代に、北海道の西芦別という小さな町に生まれました。
私が六歳の時に、当時炭鉱夫だった父親が、これからは石油の時代が到来し、炭鉱も先細りになっていくということを実感したらしく、北海道の中でも将来性のある町である苫小牧に移転することとなりました。
当時幼稚園に通っていた私は、園を途中でやめて引越すことになり(のちに中学や高校時代になると、俺は幼稚園中退だ、などとつまらない冗談を言っていたものでした)少々の寂しさを感じながらも、新しい町でこれから起こる様々な未来に期待を胸いっぱいに膨らませながら、黒い煙を吐くSLに曳かれる鈍行列車からの車窓を、いつまでも眺めていたのでした。
私は家に初めてテレビが付いた日の感動をはっきりと覚えている世代です。
当時は『じゃじゃ馬億万長者』や『名犬ラッシー』、『わんぱくフリッパー』、『うちのママは世界一』など、アメリカのテレビドラマが数多く放送されていて、そこに登場するごく普通の家庭に普通に大型テレビや、冷蔵庫、洗濯機、トースターなどがあり、広い庭のある一戸建ての家のガレージから、家族が乗った大型の自動車が出てくるといった豊かなアメリカという国に、日本人は誰もが憧れを抱いていました。
小・中・高と人並みに本を読むことが好きだった私は、学校の図書館で読んだHG・ウェルズの『タイム・マシン』や、ジュール・ベルヌの『海底二万哩』や、アメリカンジョークの本などから空想の世界で憧れを抱いていたことも相まって、いつかはアメリカに行ってみたいという夢を持っていたのです。
苫小牧では小学校、中学校、高校と、文武両道の学生生活を過ごしました。当時の大学や短大への進学率は、男女合わせて二十九・二%で、経済的にある程度余裕がある家庭でなければ七割方は就職する時代でした。
私の家は残念ながら高校生の時に修学旅行にも行けないほどの貧しい家庭だったため、小学生の時から高校を卒業するまで、正月のささやかなお年玉以外は毎月の小遣いをもらったことがありませんでした。
勉強道具以外で欲しい物があったら、新聞配達や牛乳配達をし、体が大きくなった高校時代はもっぱら肉体労働のアルバイトをして、そのお金で買っていたのです。
そして、そのアルバイトで得た、なけなしのお金を投資し、来るべきアメリカ留学を夢見て、英会話を通信教育で勉強していました。
当然大学進学という今ではごく普通のことが諸事情により叶わず、高校卒業後はすぐに東京に出て就職することとなりました。
その当時の叶わなかった海外留学が、還暦を迎える頃まで自分の夢として、思考の奥の潜在意識の隅っこにひっかかっていたのかもしれません。
あるいは、自分が叶えられなかったその思いを、のちに授かった息子に託したかったのかもしれません。