システィーナ礼拝堂に教皇の遺体が安置され、その前で「応唱歌」を歌う毎日。ジャンネットの思いは如何ばかりであったことか。
四月十日 新教皇マルケルス二世が誕生した。新教皇もすぐに聖歌隊に対し不快感を表した。
「厳粛な礼拝には、それ相応の歌い方があるはずだ。特に主の受難を追憶すべき日に、私達の罪を涙で浄化すべきである。享楽的な調子は極めて耳障りである。大変悲しいことである。礼拝の内容に応じ声を使うべきであり、さらに聴いていて良く解るように、音楽が作られるべきだ」
ユリウス三世に続き、この新教皇マルケルス二世の下であれば教皇聖歌隊は正しく修正されるはずであった。
五月一日 教皇就任わずか三週間で、マルケルス二世が逝去した。
五月二三日 ナポリ・キエーティ司教出身のパウルス四世が就任する。
七月三〇日 突然、教皇の勅令により、ジョヴァンニ・ピエルルイージ他二名が聖歌隊より除籍された。罷免の理由は妻帯者であったことと伝えられている。聖歌隊は、聖職者ではないのだから、不思議な理由である。
九月、ジャンネットはサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂聖歌隊楽長に就任した。
サン・ジョヴァンニ聖歌隊は、一五三五年に創立された若い聖歌隊であったが、パウルス三世の勅令でサンタ・マリア・マッジョーレ聖歌隊、ジューリア聖歌隊、教皇聖歌隊と同格に扱われていた。
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂はサン・ピエトロ大聖堂より古い歴史を持っている。しかも長い間教皇の住まいであった。しかし古さの為の弊害も多く抱えていた。現在ローマ教皇はサン・ピエトロ大聖堂の敷地内(バチカン)に住んでおられるが、サン・ピエトロ大聖堂は元々「聖ペテロの墓」を参拝する為に建設された教会堂である。
歴代のローマ教皇は当初からローマ司教座のあるサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂を住まいとしていた。「アヴィニョン捕囚」(一三〇九〜七七)の間に大聖堂が荒廃した為、教皇は帰国後サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に暫く身をおいた。その後サンピエトロ大聖堂が教皇座となり現在に至っているのである。
それから四年後ジャンネットは突然、自ら職を辞した。