第2章 仏教的死生観(1)― 浄土教的死生観

第4節 「妙好人」の信仰​

『大往生』(岩波新書 一九九四年)の著者・永六輔(一九三三〜二〇一六)は、「父は『死にたくない』と言って死に、母は自分で死装束を縫い、家族一人一人に感謝の遺言状を残していた。両親とも寺生れ寺育ちだったが、その往生は母の方が鮮やかだった。浄土真宗では母は妙好人。大往生。(中略)母は繰り返しての『ありがとう』が最後の言葉だった。」(前掲① 所収)と書いている。

「妙好人」とは、本来は『観無量寿経』に出てくる念仏者を讃える言葉だったが、一般的には江戸後半期から昭和の戦前までの、多くは無私無欲の人柄で善行・篤信の生活を生きた庶民を指し、ほとんどは真宗門徒である。彼等の堅固な信仰ゆえに周囲の人々に畏敬の念を引き起こし幾つかの『妙好人伝』が生まれた。

有名なのが、大和(奈良県)の清九郎(一六七八~一七五〇)、因幡(鳥取県)の源左(一八四三~一九三〇)、石見(島根県)の浅原才市(さいち)(一八五〇~一九三二)、讃岐(香川県)の庄松(しょうま)(一七九九~一八七一)などである。彼らの境遇・人柄に共通するのは、多くの場合、無知蒙昧かつ貧乏であることだ。

さらに、共に働き者で親孝行、人に親切で、時には盗人にも施すような利他の心も強く、東西本願寺などの本山や檀那寺への寄進を惜しまない。また人の侮蔑を受けても怒りを見せない謙虚な人柄で、生きものにも慈愛をそそぐことなどである。

しかも信仰に揺るぎなく、貧乏も不幸も災難もものかは、逆に「愛語」で人を慰撫し教諭する。その死生観は、単純化すれば、今のこの生を仏恩と感じて感謝の内に生き、死後も仏恩によって浄土に生きることができる、というものである。後半の死後の考えについてはこれまで紹介してきた浄土信仰から再説を要しないことだろうから、仏恩としてのこの「生」と彼等の信仰について検討してみる。

彼らの評伝を読むと、庶民の間に根強く存在した「因果応報」や「業」の思想が強いことが分かる。無知も「貧福苦楽」も「前世の業因」と観念し、盗みにあうのは「我、過去にて、あの人の物を盗みたる報いなるべし」(「妙好人伝」『日本思想大系 近世仏教の思想』所収)などと反省する。

真宗教義の「愚」の自覚を受けて、悪に染まりがちな「凡夫」としての自己が常に意識されている。「妙好人は、『天上天下、唯我独悪』を深く体験している人だといってよい」と柳宗悦は「妙好人の存在」で書いているが(『柳宗悦 妙好人論集』岩波文庫 ⑮ 所収)、そうした「悪業」を受け止めて救ってくれるのが阿弥陀仏だと彼らは考える。

例えば、因幡の源左18歳の時、父親が急逝する。その父が死ぬ時「おらが死んだら、親様を頼め」と言い残したその意味を尋ねて彼の「聴聞」の日々が続くのだが、十年余の後の30歳の頃、真宗常用の語句を使えば「宿善開発(しゅくぜんかいほつ)」の時至って、信仰に目覚める。自分では背負いきれぬ刈り草を牛の背の左右に背負わせた時、悟ったのだ。

自分が負いきれなかった草とは自分の業であり、「人間には負いきれぬ業の科(とが)を弥陀(牛)が背負って下さる」のだ、と。「草を食(は)んで牛は牛となる」と同様に「人間の業を背負わずば弥陀は弥陀とならぬ」、そうでなければ「正覚を取らぬ」と阿弥陀仏はその第十八願で誓ったのだ。こうして父の言い残した「親様とは弥陀であり、そのお慈悲だ」と気づく(※補註1参照)。

※補註1……前掲柳『妙好人論集』の「源左の一生」より。なお、鈴木大拙(一八七〇〜一九六六)は、日本的霊性が、禅のように「知性」を通して現われるのに対して、浄土教では「情性」、とりわけ阿弥陀仏を親と見、自分を子として仏に対する心情、すなわち「親子」の情を通して現われる、と比較している。鈴木『日本的霊性』岩波文庫 昭和47年。