第2章 仏教的死生観(1)― 浄土教的死生観

第3節 小林一茶の場合

また、50歳の時に帰住した故郷・柏原は善光寺にも近いが、江戸時代最も出開帳(「本尊など仏像類を他所へ出して公開すること」『広辞苑』)の多かった善光寺は本尊・阿弥陀如来に対する民衆の信仰のメッカと言っていい。この近辺で幾つかの俳句サークルを指導した一茶には阿弥陀信仰が身近なものだった。

「法談の手真似も見えて夏木立」の句にある「法談」、つまり節談説教なども地域で行われていた。また、一茶は「愚禿(ぐとく)親鸞」同様、己の「愚」の自覚を持っていて、、「地獄必定のわれ」と題して「露ちるや地獄の種をけふもまく」の句もある。52歳での初婚に「あきらめがたき業のふしぎ、おそろしくなん思ひ侍りぬ」と書いた一茶だが(「五十聟」『一茶全集 第五巻』)、妻との交合の記録を残したような煩悩具足の凡人としての自己の「愚」と「業」の自覚は、庶民や弱者や蚤・虱・蚊に始まる虫や小動物への愛情あふれた関心と無縁ではあるまい。

「とべよ蚤同じ事なら蓮の上」の句では、人の手に潰される蚤の往生を願っている。草木や虫や小動物の生の営みへの一茶の関心は強い。「一寸の草にも五分の花咲きぬ」とか「蟷螂(とうろう)(=カマキリ)や五分の魂見よ見よと」などと、生物の生命力(魂)に感動する眼を持っている。

「うつくしや若竹の子のついついと」、「夕空に蚊も初声をあげにけり」、「蝸牛(かたつむり)気永に不二へ上る也」などといった句もある。が、確かに渡邊弘の言うように「生きとし生けるもの」の「逞しく成長していく姿を見て、常に心から歓喜していた」背景には「彼のひときわ強い死の自覚があるということを見逃すわけにはいかない」。「鳴(なく)な虫だまって居ても一期(いちご)也」の句を読むと、無明の存在の我々は泣いても黙っていてもいずれ死ぬ身なのだと、自分に言い聞かせている風でもある。

弟子・西原文虎(ぶんこ)の『一茶翁終焉記』(『一茶全集・別巻』)によると、一茶は文政10年11月に「一声の念仏を期として大乗妙典のうてなに隠る」、つまり往生を遂げた。その年の閏6月には柏原の大火で「俳諧寺(一茶の住居)の什物(じゅうもつ)一時の灰燼(かいじん)となる。

されど三界無安の常をさとりて、雨ふらばふれ、風ふかばふけとて、もとより無庵の境界なれば、露ばかり憂(うれ)うるけしきもなく、悠然として老をやしな」っていたが、三度目の中風の発作で死んだのだ。65歳、法名「釈一茶不退位」。不退位とは成仏の位定まって退転しない、の意。

※補註……一茶の句については、岩波文庫以外に、渡邊弘『一茶とその人生』NHKラジオテキスト 二〇一四年に依拠し、また信濃教育会編『一茶全集(全八巻・別巻一)』信濃毎日新聞社 昭和51~55年刊の特に『第一巻・発句』などを参照した。