第1章 前提としての「無常観」と「アニミズム」

第1節 無常観と死の受容

今まで多くの文献を通して得た私の実感では、日本人の死生観の根底にある大きな要素として、「無常観」を抜きにすることはできない。この無常観こそが日本人の死に対する淡白さや潔さを特徴づけ、「死の受容」を容易にしたと思えるからである。

東日本大震災のあった平成23・二〇一一年の6月、村上春樹はスペインでの「カタルーニャ国際賞授賞式」で講演を行った。その内容を紹介したい。

この大地震で日本人は激しいショックを受け、無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じているが、結局は「我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについては、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです」と言って、村上は自然災害を「仕方ないもの」と受け止めることで乗り越えてきた力として、「無常」観を挙げた。

日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態は一つとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。

これは仏教から来ている世界観ですが、この『無常』という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

(中略)

生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚(はかな)さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆(もろ)い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具(そな)わっているはずです。」(毎日新聞・二〇一一年6月14〜16日夕刊)

村上のこうした指摘は必ずしも目新しいものではない。既に寺田寅彦(一八七八~一九三五)は、昭和10年の「日本人の自然観」という論文で、

仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教義の含有するいろいろの因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。

鴨長明の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っているからである」(『寺田寅彦随筆集 第五巻』岩波文庫 一九七七年)と述べている。

地震・津波・台風・火山などの自然災害だけではない、病気もまた人々を死に追いやった大きな暴威だった。江戸時代はもちろん、太平洋戦争以前、コレラ・疱瘡・麻疹などによる病死は日常的なもので、特に幼児死亡率は高く、「出生児十人のうち六歳に達するのが七人以下、十六歳まで生存できるのは五、六人にすぎなかった」(鬼頭宏『日本二千年の人口史』、渡辺京二『江戸という幻景』弦書房 二〇〇四年より引用)。

こうしたことを挙げながら、渡辺京二は「死を気軽に考えている江戸時代人」の「かすかに哀愁を帯びながら徹底的に明るい虚無感」の背景の一つに、「人間いつ死ぬかわからないという」当時の人々の無常観を指摘している(なお、江戸人の死に対する虚無感と、その一方にある恬淡とした気軽な態度は第10章で論じたい)。

小林一茶(後述)は娘のさとが数え2歳で死んだ時、「露の世は露の世ながらさりながら」(『おらが春』)と詠んだが、自然災害と病気の脅威の前には露の如くはかないこの生、との思いが日本人の無常観を強くしたことは当然である。

ここで、日本人の無常観の歴史を少し振り返っておきたい。

古くは『万葉集』に「うつせみの世は常なしと知るものの 秋風寒み(=寒いので)思(しの)びつるかも」(大伴家持、亡き妻を偲(しの)んで)とか、「世の中を何にたとへむ 朝びらき漕(こ)ぎ去(い)にし船の跡なきがごと」(沙弥満誓)などと詠われた。

やがて仏教の社会への浸透とともに、多くの「無常」の歌が挽歌・釈教歌として詠まれるほかに、多くの人の愛でる「桜」が無常の象徴の一つともなった。『古今集』でも、「うつせみの世にも似たるか花ざくら 咲くと見しまにかつ散りにけり」(よみ人知らず)と詠まれた。

そして無常なるこの「穢土」を厭い、「浄土」を欣求する浄土教信仰は源信の『往生要集』(九八五年成立)などの影響もあって人々の間に拡大していった。

『方丈記』『徒然草』また『平家物語』の無常観については言うまでもないだろう。兼好法師ら知識人にとってのみならず、鎌倉期に中国から日本に渡来した禅宗でも「生死事大・無常迅速」は根本的な課題だった。

室町時代の蓮如の「白骨の御文章(御文)」は福沢諭吉なども「一時は暗記した」こともあった(「福澤全集緒言」『福沢諭吉全集』第1巻 岩波書店 ②)ほど、人々によく知られていた。

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそ儚(はかな)きものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。(中略)されば、朝(あした)には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼(まなこ)たちまちに閉ぢ、一つの息ながく絶えぬれば(下略)」といった文章を幼い時に聞かせられて、この世の無常と死の受容の心情に染まった人は実に多い。

浄土真宗信仰の家庭に育った内科医で臨死体験もしたという毛利孝一(一九〇九~二〇〇二)もその一人で「子供のころから無常感の傾向がしみついている」ためか、人生上の問題にぶつかると「まず仏教書に頼ってきた」と記している(『生と死の境』東京書籍 ③)。