【前回の記事を読む】「死の恐怖?」新聞の余白に記された父の文字

第2章 仏教的死生観

(1)浄土教的死生観

さて、江戸時代に庶民にも定着してきた「家」制度(世襲的「家職」の維持と祖霊信仰、「孝」の重視などを内容とする)の維持のためには、子を産む性である女性の場合、「出家」までして信仰に生きることは困難であったが、夫に先立たれた女性や、家の規範から免れた遊女、あるいは病気がちの女性の場合は、「穢土」、つまり穢れたこの世を「厭離」し、死後の極楽浄土への往生を「欣求」する思いがとりわけ強かったようだ。

例えば学芸史家・森銑三(一八九五~一九八五)の紹介する(りょう)(ねん)()(一六四六~一七一一)もそうした思いを抱いた女性のひとりだった。俗名を葛山(かつらやま)ふさといい、生計が豊かで教養も高い父母の下、「宗教的雰囲気も相当に濃かった」家で育ち、8歳前後に東福門院(後水尾天皇の中宮)に仕え、17~18歳ごろ16歳年上の儒医の松田晩翠と結婚し、二男三女をもうけた後に婚家を離れている。

その後、東福門院の御孫・好君への宮仕えをし、宝永4・一七〇七年の好君の薨去に殉ずる気持ちもあってか、江戸・黄檗宗(註:念仏禅を特色とする)の白翁に入門を申し出たが、その美貌の故に寺の外聞が憚られて断られ、そこで銅器(今のアイロンに相当する「ひのし」らしい)を焼いて額をはじめ顔に当ててそれで入門を許されたといわれる人物である。

白翁の死後、元禄14・一七〇一年に黄檗派の泰雲寺を起こし、夫をここに葬っている(『森銑三著作集』第9巻「了然尼」一九七一年)。

また大田垣(れん)(げつ)(一七九一~一八七五)の場合は、京都知恩院門跡に仕える太田垣光古の養女で名は(のぶ)と言った。光古は養子をもらって誠と(めと)わせるが、その最初の夫と死に別れ子供も死に、二度目の夫とも死別、さらにその間に生まれた子も亡くなって、浄土宗・知恩院の大僧正によって得度している。おそらく強い無常観ゆえの出家に違いない。

彼女が生活のためにつくった手ひねりの「きびしょ」(急須)や徳利は人気があって、しかも美女であった彼女は言い寄る男たちを退けるために歯を抜いたという。

杉本秀太郎『大田垣蓮月』(中公文庫 昭和63年)によると、彼女の側近くに仕えた富岡鉄斎はこの逸話を、蓮月尼ならやりそうなこと、と否定していない。杉本の言うように「仏教臭」を感じさせない彼女ではあったが、その辞世歌二首。

第一首には自分の名を織り込み、浄土での観月の希望を詠む。

願はくは後の(はちす)の花の(うへ)にくもらぬ月をみるよしもがな

塵ほども心にかかる雲もなし今日を限りの夕暮れの空

「願はくは」の歌に関しては、85歳で世を去った時、遺言で遺体を白木綿の大風呂敷に包んでもらったが、それには「みずから筆をとった蓮と月の絵が描かれていたという(中江克己『江戸の冠婚葬祭』潮出版社 二〇一四年)。

なお、阿弥陀如来の台座が蓮華座である縁もあって、蓮が浄土の象徴となったことは言うまでもない。