第2章 仏教的死生観(1)― 浄土教的死生観
第4節 「妙好人」の信仰
同様のことは浅原才市にも見える。
「海には 水ばかり/水を受けもつ底あり/才市には 悪ばかり/悪を受けもつ 阿弥陀あり/嬉しや/南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
「俺の心は くるくる廻る/業の車に廻されて/廻れば廻れ 臨終まで/これから先に車なし/止めて貰うたよ なむあみだぶつ」(上掲 ⑮)
こうした歌に表れているのは、「唯我独悪」を受け止める阿弥陀、「因業」の輪廻を止める阿弥陀の広大な慈悲、その「仏恩」に対する「報謝」のために南無阿弥陀仏が唱えられるということであって、毎日が報恩の生活となる。もっとも浅原の場合は、報恩の生活を送るこの「娑婆」がそのまま極楽となる。
「臨終済んで参るじゃない。/臨終済まぬ時参る極楽。/なむあみだぶにすめてあること。/なむあみだぶつ。」(「すめて」は「占め取られてある」の意かと仏教学者の鈴木大拙は推測。)
「これで見れば、極楽は明らかに臨終前に在るのである。死んでから往く極楽でなくて、生きているうちに往く極楽である。そして才市は今そこに居るのである」と鈴木大拙は解説する。
浅原は「あみだ仏の御名(みな)を聞き、/これが才市になる仏で、/この仏すなわちなむあみだぶつ」とか「なむ仏は才市が仏で才市なり。/才市がさとりを開くなむぶつ。/これを貰(もろ)うたがなむあみだぶつ」とも歌う。大拙は「その才市が仏になるとすれば、娑婆が極楽になるのも不思議はない」と言う(※補註2参照)。
とはいえ、「娑婆即極楽」を悟った妙好人といえども、多くが死後の極楽浄土への往生を願ったのは当然だ。例えば、大和の貧しい清九郎は、西本願寺に冥加(寄付)金を献上した時、門主の前に一人召し出され感激し、「御言(おことば)に預かりし嬉しさ、身の毛いよたち難有(ありがた)」いと思い、まして死後「浄土へ往生とげたてまつり、正身(しょうじん)の如来様の、直(じき)の御言を蒙(こうむ)りなば、何程か難有からん」(『日本思想大系 近世仏教の思想』)と来世での阿弥陀如来との出会いを想像して感激の思いを漏らしたのだった。
※補註1……前掲柳『妙好人論集』の「源左の一生」より。なお、鈴木大拙(一八七〇〜一九六六)は、日本的霊性が、禅のように「知性」を通して現われるのに対して、浄土教では「情性」、とりわけ阿弥陀仏を親と見、自分を子として仏に対する心情、すなわち「親子」の情を通して現われる、と比較している。鈴木『日本的霊性』岩波文庫 昭和47年。
※補註2……鈴木大拙の浅原才市論は『日本的霊性』岩波文庫 昭和47年刊より。なお浅原才市たちを生んだ土壌として、真宗信仰はもちろんだが、「心学」の庶民への広がりも無視できない。
例えば、石門心学の創始者・石田梅岩(一六八五〜一七四四)の『都鄙(とひ)問答』(一七三九年刊)巻之四には「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱(となふ)れば、念仏にくせづきて、終(つい)には余念他念なく、後には南無阿弥陀仏になれば、我と云いふものあるべきや。我なければ虚空の如し。虚空に南無阿弥陀仏の声有(あり)て、唱れば此れ即阿弥陀仏なり。
(中略)弥陀を念ずる行者も念ぜらるる方の仏も、双方ともに一体と成り、苦楽の二つを離れ終るなり。離れ終って無心無念の不可思議と成る」とあるが、その直ぐ後の「唯心の浄土、己(こ)心の弥陀なれば、娑婆即寂光(しゃばそくじゃっこう)なり」といった言葉に見られるように、浄土を死後の別世界としない思想も成立していた。
こうした心学には、「空」や「無我」を重視した禅的な浄土教の色彩が濃い。引用は『都鄙問答』岩波文庫 昭和18年)。