第2章 仏教的死生観(1)― 浄土教的死生観
第5節 死刑を前にした戦犯の場合
ここでは太平洋戦争で「戦犯(戦争犯罪者)」となり死刑に直面した日本人の死生観の中で、浄土教的な例を取り上げる。
『世紀の遺書』という昭和28年に刊行された大著(参照したのは「復刻版」、巣鴨遺書編纂会、講談社 ⑯)には、少数のA級戦犯者と大多数のB・C級戦犯者の遺書・日記・遺詠など七〇一篇が収められている(※補註参照)。
東京の巣鴨刑務所のほか、香港、マニラ、シンガポール、バタビヤなど約50カ所の外地で裁判を受け死刑に処せられた、あるいは未決中に自決・病死・事故死した、日本兵(台湾・朝鮮半島出身者を含む)の遺稿集である。
その中に、福島県出身で、安積中学校(現・県立安積高校)卒業の憲兵曹長だった半沢勇の遺稿がある。インドネシアのバタビヤ市グロドッグ刑務所で昭和24年9月に刑死した31歳の妻子ある兵士であった。
彼は処刑前日には「天命を知って足れりと為すに到達し永遠の世界に入って行きます」という心境を知人に伝え、また家族にも希望と理想を失わないよう遺言を残している。
ほかに「独房悲歌」という思索の文章があって、これが半沢の知性の高さを思わせる。刑務所の若い日本兵の間で、「天皇陛下のために笑って命を捧げる日本軍人の死生観原理」が瓦解し、「死ぬ意義を発見納得し得ない苦悩が深刻」になって「頽廃的な虚無感」が充満している、と半沢は分析する。
さらに「意識して銃口の前に立つには、相当な勇気がいる。宗教的な信仰も何もない吾々青年は日本人の意気だけで頑張れるだけだ。人に笑われたくない。それだけで真剣になってる努力が見える」として「室内で、一人刑場に歩む練習をしている」ある伍長の話を記す。
ただ「最近老人が独房に来てから、一部に(中略)仏にすがって彼の世に渡らせて貰うべく、熱心に南無阿弥陀仏を唱え」る者も出始めたことも付け加える。
彼自身はプロテスタントの牧師が行う集会に参加し、キリスト教に傾斜していたらしく、その形跡が家族への「希望と理想を見失うな」「美しいのは愛情の世界だ」などといった言葉に表れているが、恐らく最終的には上述の儒教的な「天命」の死生観(後述)を抱いて銃口の前に立ったと思われる。