彼は言う。

─ぼくには夢がある。

夢を持てばそれを叶えようとする。そして工夫をする。貯金もするし、また何らかのレッスンにも通う。言うまでもなくオリジナルのスケジュールを作成し、それを実践する。24 時間、週7日が、3次元的に理性的にもまた感覚的にも秩序付けられる。だがそうなった場合、彼は孤独に耐えなければいけなくなる。

なぜならば、彼は個性に忠実であるが故に、そこでは他人との共通項はむしろ狭まるからだ。ここは決別の生じやすい場面であり、それもまた青春の一ページとしては肯定されるべきものということは理解しながらも、一定の決断を必要とするところでもある。夢を追うということは、「社会の基準と私の基準は(部分的にせよ)異なる」ことの発見のことであり、それはとりもなおさず、一個人の精神的な意味での独立宣言である。

彼は、結果的にせよエッジに近づく。だが善を行うとはそういうことなのである。たとえ個々人の内側における認識革命であったとしても、そこでは旧は排されなければならない。したがって時に豹変が受容され、それを選択した主体は、あくまでも旧に留まろうとする勢力としばしば対立関係に陥る。おそらく彼はそれをいやというほど経験している。だから容易に他人を信じないとなるのである。それは裏切られた経験があるというよりは、むしろ個性を善に近づけようとすればするほど、決別と無縁ではいられなくなることをよく理解しているからでもあろう。

夢は意思を育む。そこに工夫の必要性が生じるのだから当然である。そして意思があることによって偶然と必然との差異に気付く。さらに言えば、身の回りに起こる奇妙な偶然が複数連なることによって、ある種の運命を悟る。「私はそういう星のもとに生まれてきたのである」と思ったりするのである。それは、善がそこに入り込まなければ容易に絶望へと変化するものだが、彼は幾度かの生命の危機を何とかして乗り越え、そこに人類的に意味を持つ幸福のための法則の発見のとば口まで辿り着いたようである。

正直な話、ここまで対象の範囲を広げることによって、ようやく彼を表現するだけの空間を得たという感じだ。時間と空間の無限。だが、善にこだわれば最終的には必ずそうなる。ここは宗教が出て来なければいけなくなる場面であるのだ。

【前回の記事を読む】「だからぼくは、この地球という惑星をまるで妹のように扱う」