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シトラスの香りは、甘酸っぱい初恋の香り──。私は、大学一年生だった。
キュロロロローと遠くから聞こえるのは、アカショウビンという鳥の鳴き声。新緑の香りが風に乗って私の肌を撫でる、春半ば。 プシューと、バスの扉が開く音。白杖を片手に、私はそのバスに乗り込んだ。優先席の方に向かう。
「ここに座るかい?」
とお年寄りの女性の声。
「空いていますか?」
と私は聞き返した。
「大丈夫よ。あんたの方が大変そうだから……」
と答えが返ってきた。
私は思う。目が見えないことは、大変なのだろうか? 私は、生まれたときから目が見えない。だから、これが当たり前だと思って生活している。例えば、あなたが音痴だったら、あなたは、大変だろうか? 音痴であるが故に、カラオケにも誘われず、仲間外れにされ、バスで「音痴で大変だから」と、席を譲られることになるのだろうか?
「大変だから……」という言葉が腑に落ちない私は、そのお年寄りの方に、
「無理なさらないでください。私は立っていても平気なので」
と毅然とした態度で断った。すると、バス前方の席から、
「ここの席、空いていますよ」
と若い男の人の声。その男性は、私の腕を優しく掴んで、席まで連れて行ってくれた。彼からは、さわやかなシトラスの香りがした。
由紀はいつものように、国立大学前の停留所を通るバスに乗る。優先席が空いているときは、そこの席に座ることができた。でも、空いていないときもある。そんなときには、決まってあのときと同じ声の彼が声を掛けてくれた。
「ここの席、空いていますよ」
彼は、嘘がとても下手だった。けど、嬉しかった。
彼が座らせてくれた席は、どのシートも温かかった。いつもなら、私が「ありがとうございます」と言うと、「いえ」とだけ言って彼はその場を離れていく。しかし、今日はバスの中がとても混んでいたようで、行き場を失った彼は、手すりに掴まって立っていた。さわやかなシトラスの香りが、私のすぐ傍にいてくれる。それだけで、ドキドキするこの気持ちって何だろう。