【前回の記事を読む】「今私に必要な教えはいったい…」15才の少女がその等身大の悩みを吐露

15才(中学3年秋~中学卒業) 1971年10月27日(水)~1972年3月16日(木)

11月7日(日)

今日は諸聖人の大祝日のミサがあるのに行きませんでした。朝からどうもおく病で、それに行こうか行くまいかまようほどでした。守るべき祝日だったのです。本当に私という人間はとてもおそろしいと思いました。

小さいころからそうだったのですが、小さいころの性格を思いだすたびにぞっとしてきます。小さいころは、わがままで、他人のことなどこれっぽっちも考えませんでした。何でも自分のことばかりしか頭になかったのです。

母と弟はみかん狩りに父の新車で行きました。父はこれで3度目の車です。今度のはとても大きくてゆったりしています。屋上とボディーの色がちがい、金色のすてきなものですが、私はあまりよろこぶほどでもありませんでした。

母達が帰ってきて、みかんを食べましたが、あまりおいしいものでもありませんでした。とても大きかったというだけでした。何となくですが、何となく何でもがおもしろくありません。やっぱり教会へ行かなかったというのが大きな問題なのでしょうか? 

(おもしろくない)

人間っていうのは本当に弱いものだと思います。何か一つ苦しみがあれば何でもがおもしろくなくて生きてはいけない……とまでも思いつめてしまうことです。何かが自分をささえていなければだめなのです。その何かが、いったいそれは何でしょう? 

「それは神である」といえばそうでしょう。私もそう考えたのです。以前までは……今でもまだそう考えています。70%。でも②神は私の手のとどかないところで見ているだけで、じかに私を助けて下さっているとは考えられません。それが30%なのです。そしてその70%のものも、うたがいぶかいんです

②を考えれば考えるほどそうだと思うし、①は、何となくそうなってしまうのです。もっと私に必要なのは神が本当に私には必要かどうか、この機会に追求することだと思いました。どの道が私にとって一番の幸せなのかということを。

諸聖人の大祝日

守るべき祝日

聖テレジア

聖パウロ

聖アンナ

聖バルトロメア・カピタニオ

聖カタリナ

聖マリア

聖クララ

聖シシリア