11月8日(月)

私は考えました。私は苦しむことによって神への愛徳を行なっているんだということです(これはまだはっきりしたことは言えないけれど)。でも苦しんでいる時でしか私の考えはこうだといえます。

→これはそう考えると、希望がわくからなのです。少しでも私の益のほうにとると苦しみなんか平気に思えるからです。

でもwhy? なぜ平気に思えるんでしょう。why? なぜ勇気がでてきて、希望がわくのでしょう。これが私の不思議の1つです。これもやはり神のみ教えかもしれません。

この前の教えの時、シスターがおっしゃっていました。人間は神を求めるように造られている――と。人間はたびたび愛徳にそむき罪をおかして神からはなれるが、結局神はそんな人間達にたびたび、神を求め、したうという機会(チャンス)をお与えになっておられるのです。

そんなこととは知らずにそんな機会も眼中に入れずにいつも私達はそれを見すてていたのでした。私はこの世をもっと広い目で見なければならないことをさとり、そんな機会を甘んじて耐えしのび神と距離を近づけようと思いました。

11月10日(水)

父兄会でした。朝少しおくれたのですが別に何ともありませんでした。でもいやにみんな(私の友人など)は私によそよそしいので私のほうが変な気持ちになってきて、ついに私は友人に対して皮肉っぽく口論してしまいました。私のほうがいけなかったのですぐに考えましたが、友人はとてもいい人で、そんな私でもやさしく受け入れてくれたことがとてもうれしかったです。

私はこんなふうに、少しまわりの状態から気分を変えることがよくあるのでとても注意しているつもりです。けれどたびたびそんな欠点が出てしまうので本当に自分でも気をつけたいと思います。

それから授業はまじめに受けているつもりですが、私は少しうぬぼれていると思いました。自分だけ知ったかぶりをすることです。

何か

「あっこれも知ってる」

「これも、あれも」

といったふうなので友達が私をあまり好きではありません。だからそれもよそうと思います。知ったかぶりをして相手に強みを見せても結局自分は何一つわかっていないと気づくからです。

それを気づいた時はもうおそく、自分自身が恥ずかしいし、他人にも不愉快な目にあわせるからだとつくづく感じます。父兄会で母は私のいろいろなことを聞かれたそうです。

あまり家事のことはしません。そして特別といって良い所もないといった具合です。