労働闘争まれる

私は近江絹絲の大垣工場で働くため、十六歳で初めて親元を離れ、一人で岐阜県・大垣市へとやって来た。初めての寮暮らし、そして会社が設立した近江高校の定時制にも通えることになっていて、当初は新しい生活にとても胸をふくらませていた。大きな会社だから、きっと恵まれた労働環境であると思った。

だが現実はとても厳しかった。私たち工員は、まるでロボットのように朝から夕方までずっと工場の機械の前に立ち続け、休むことを許されずに働く。わずかな昼食時間だけ、やっと緊張から解き放たれる。夕方になると高校へは通わせてもらえたが、もう体はクタクタで勉強どころではなかった(ちなみに私が通った高校は、今も私立近江高校として健在。野球部が強く、何度か甲子園にも出場し、滋賀県勢初の準優勝を飾ったこともある名門校となっている)。

私たち工員の仕事はまさに肉体労働そのもので、仕事を楽しいと思えることはなかった。それでも大きな工場で働いた経験のなかった自分にとっては、仕事とはこんなものかと思い、しばらくはどうにか踏ん張ることができた。

ところが入社して半年ほど経ったとき、社会をも揺るがす大事件に私自身も巻き込まれてしまうこととなる。昭和二十九(一九五四)年、近江絹絲の大阪工場本社で起こった労働争議を発端とする、会社側と労働者との対立である。後に「近江絹糸争議」と呼ばれたもので、過酷な労働を経営側から強いられた工員たちが立ち上がり、組合を作ってストライキを決行するなどして立ち向かった。新聞やラジオでも大きく取り上げられ、世間の注目を浴び、社会問題化もした労使闘争である。

大阪工場に続いて、岸和田工場、彦根工場、富士宮工場と次々に組合が作られてストへと突入していった。私たちの工場でもストを起こし、ピケを張った。

「労働者の権利を守れ!」

と意気盛ん。あっという間にその空気に巻き込まれた十六歳の私は、周りの大人たちの熱に感化されながら、同志となって共に闘った。世間からも注目され、私たちの意が通るかと思われたが、経営者側も強硬策に出る。会社に浮浪者たちを雇い入れて、強硬に工場へ突入させたのである。まだ入社して間もない若造ではあったが、血気盛んな年頃である。私も仲間たちと一緒に、自分たちこそ正義とばかりに激しく闘った。

今の時代には考えられないかもしれないが、もう殴り合いの喧嘩である。労働者の権利や人権は守られておらず、それを正すためには行動で示すことしか私たちにはできなかったのだ。仲間の中には抗議のために自殺する者も出たほどの大きな騒動となった。結局、国が介入し、百五日にわたった「近江絹糸争議」は、労働組合側の要求が認められたかたちで幕を引くこととなるのだが、私はほとほと嫌気が差してしまい、寮で一緒だった仲間七人と会社を辞めてしまった。