第三章 宿舎での生活

雄太の隣部屋である一〇二号室の共産党系で京都選出の竹口議員の奥様は自炊することが多く、共同炊事場でよくお会いした。

この水場では、洗顔、歯磨き、肌の手入れが可能であり、米研ぎ、簡単な炊事も可能であった。地方から選出された議員は多く議員宿舎に宿泊していたが、一部の議員を除いて決して派手な生活をしていたわけではないと思われた。

時には宿舎からのゆるい傾斜の坂を上り下りする買物姿を目にして挨拶する。雄太は九段坂の途中ですれ違いに議員奥様が買物篭に惣菜を入れて坂を上って来るのを時々見かける。国家の命運を担う議員と言えども節約できるところは切り詰めているように見えた。議員本人は様々な会合や集いでそれ相応の「もてなし」があったと思われるが家族は別である。

雄太と同じ並びの奥まった部屋には、後に首相となった池上浦太郎氏の父である池上和也議員も住んでいた。毎日地盤である横須賀への往復は不便であったのであろう。浦太郎氏自身は見かけなかったので、〈なぜだろう〉と話題に上ったことがあった。ある人の言うには〈慶応大学在学中ではあるが、今はイギリスへ留学しているのではないか〉との話があったので、雄太もそれで見当たらないんだと合点した。宿舎での小さな部屋の生活では息が詰まってしまったに違いない。

和也氏は救急車を利用することも度々あった。間もなく防衛庁長官に抜擢されるような重要な地位にあり、毎日が激務との戦いで体調を崩していたのかも知れない。

その後、浦太郎氏が慶応大学の三田校舎で学ぶようになった関係からか、九段宿舎より高輪宿舎の方が交通の便が良いと考えたのか、九段宿舎からの噂はきかなくなった。その後、風の噂では、和也氏と浦太郎氏は高輪宿舎で暮らすようになったときいた。

後年、地盤を引き継いだ浦太郎氏も宿舎を九段議員宿舎ではなく、高輪議員宿舎を選択した。浦太郎氏が学生時代過ごした慶応へは九段より高輪の方が距離的にも近く、親近感を持っていたのかも知れない。その高輪議員宿舎も赤坂議員宿舎が豪華で国家の命運を担うにふさわしい超高層マンションに建て替えられた影響からか、その姿を消した。

宿舎を舞台にした雄太の知らないドラマが数多く演出されたことだろう。長期政権を誇った前崎忠利元総理も九段議員宿舎の住民として家族五人共々生活を勤しんだこともある。総理になる前の時期で、小邸宅主義者の前崎忠利元総理にはこの住居で十分であったのかも知れない。