序章
雄太の五、六歳の頃のエピソードと言えば、こんなことがあった。
春の季節だった。雄太は田んぼでグミの実を取ろうとしていた。実は田んぼに大きくつき出した木の先端にある。雄太は木に登り、そろそろと先端に近づく。グミの実を取ろうと右手を伸ばす。左手が三つまたの反対側の枝を掴んだ。ところが枝は枯れていてボキッと折れた。
五メートルもあろうか田んぼに真っ逆さまに落ちた。田んぼは田一面が水面で浮き出ていて、泥んこになってしまった。秋の季節の乾いている田んぼでなかったのは幸いであった。泥はクッションであり、雄太の身を守ってくれた。雄太は泣きながら全身泥まみれのまま歩いて我が家に帰った。我が家までは五百メートルはあったであろう。
我が家ではこれを見た母親の信江が笑いながら「雄太、なにその格好。鏡で見てご覧。まるで化物だよ」と大笑いした。何せ頭のてっぺんから足元まで全身真っ黒で目だけが瞬いていたのだから。
ある時、実家の隣の家の姉さんに雄太が囁いた。「姉ちゃん、いいものあげるよ!」と。姉ちゃんは「雄ちゃん、いいものってなあに? 姉ちゃんもらいたいなあ」との返事。雄太は姉ちゃんに向かって後ろ向きになり「いいものってこれ!」と屁をぶー! とひとくさり放った。後刻、姉ちゃんは母親に報告。二人は大笑い。母親は姉ちゃんに「しょうのない子ねえ」と謝った。
雄太はやんちゃな一面を持つ子供でもあった。
戦争での体験談。太平洋戦争中、雄太の家には兵士が三十人~四十人常駐していた。その兵士のひとりは少尉であった。日中、雄太が兵士の中を走り回っていた。終戦前年夏の季節だ。雄太四歳頃の時、この兵士が腰ベルトに吊るされたサーベルを鞘から抜いて雄太に横切りで切りつけてきた。サーベルは日本刀のように切れ味が鋭いというものではない。もちろん悪ふざけである。
雄太は目をひんむいて「ひぇっ」と絶叫して柱の陰に隠れた。恐る恐る兵士の素振りを伺うと兵士は「冗談だよ坊や!」とうそぶいてせせら笑った。