第三章 宿舎での生活

大学二年から三年に進級するに際しては、学部変更が可能な転部という制度があった。雄太は、ならばこの制度に挑戦してみようと決心した。経済学部から工学部への転部試験である。このことは両親には相談しなかった。自分の心が揺らぐのを恐れたからだ。この制度を活用する学生は多数おり、約四十人はいたと思う。

受験した学生の多くが合格した。雄太でも合格できたのだから、この選択はいわば、僥倖であったに違いない。同じ大学での学部間移動だから大学では大目に見たのであろう。これからの人生をたどってみなければ分からないが、吉と出るか凶と出るか若い雄太には分からない。しかし挑戦はしたので、結果がどうあろうと自分自身は納得した。

――転部を認められた雄太は通学ルートが大幅に変わった。今までは歩いて十分もかからなかった大学への道程も今度は電車で国鉄飯田橋から田町駅へと。田町駅からは三十分も歩いての登校となり、通学時間はかなり遠い道のりとなった。登下校の際、慶応大学三田キャンパスを通る場合もあり、学生食堂で食事のお世話にありつけたことも度々あった。

もっとも登校には別ルートもあった。そのルートとは、朝八時過ぎから十五分毎に議員宿舎と議員会館とを結ぶ専用定期バスに乗り込むことである。宿舎で生活する者以外はバスを利用できない。親父さん宛ての議員宿舎に送付された書類を議員会館へ届けるのも目的のひとつである。

議員会館へ到着するなり、親父さんの部屋のドアをノックする。

「どうぞ! 入って」

との慣れ親しんだ声をきき、書類を第一秘書の誠一さんに渡す。秘書は正式には法律で給与額が違っていて、給与額が表第一によるものが、第一秘書、表第二によるものが第二秘書と呼ぶ。平成五年(一九九三)に政策秘書制度が導入され、議員の政策立案、能力向上に資する者が選ばれるようになる。

誠一さんは千葉市の稲毛に住んでおり、朝早くからの出勤である。北京大学出身の誠一さんは頭が良く学もあり、筆跡に乱れはないが、雄太に対しては微笑を絶やさず、歯切れの良い口調での会話である。