「何か困るようなことがあったら忌憚なく言ってね」

は常套文句である。時として、ずり落ちそうになる鼈甲に縁取られた眼鏡を持ち上げて、場合によっては一時間も四方山話に花を咲かせる。電話もひっきりなしに鳴る。大学への登校での途中が多かったから、二十~三十分の話を交わし解放された。

会館部屋の間取りは今の議員会館のような受付と秘書用の事務室が併設された部屋と議員用の部屋と会議室があるわけではなく、間仕切りされた一部屋およそ四十平方メートルのコンパクトな洋室のみだった。

因みに平成二十二年(二〇一〇)七月から供用開始された新議員会館は広さ百平方メートルとなった。当時とは雲泥の差だ。今の首相官邸の程近くに二階建ての建物として議員会館は建てられていた。今は衆議院議員会館別館、内閣府となっている。戦後の混乱時期に建設されたのだから仕方がない。

プールも併設されていた。屋外プールである。屋内プールなら合点もいくが、今では考えられない。小学校や中学校の生徒が泳ぐではなし、不用心であり、肌を晒して議員が泳ぐものか。とんと泳いでいる議員先生を見たことがない。それでも当時、贅沢と不評を買っていたせっかくのプールを「利用しない手はない」とばかり体力増強に勤しみ、勇躍勇んでせっせと泳いでいる議員秘書もいたと聞いている。せめて火災の発生時には役立ちそうだが……。

議員会館経由の大学への登校には、議員会館から都営バスと都電を利用して校舎に向かった。当時、工学部の町名は南麻布だが、校舎の近くは町工場が数多く点在し、午前中からの営業ともなると

「ガタン、ゴトン」

と機械による板金の音が時としてうるさく、講師も

「チェ! また始まったかうるさいな。これじゃ集中して講義などやってられない」

と舌打ちすることも度々あった。その後、工学部は小金井へと移転した。時には昼休みの時間を利用して有栖川記念公園まで仲間と散歩した。食後の運動には手頃の場所であった。

広い公園内は枯山水などが配置されていて芸術的な趣も味わえた。周囲には六本木や麻布十番が隣接し、超一等地へと変貌を遂げる。都電と呼ばれる路面電車が走っていた当時からすると、今日の繁栄する街の姿は想像すらできないだろう。

工学部へ転部が叶った雄太は工学部経営工学専攻だから、技術系の授業が主となった。親が会社経営をしている学生が数多くいた。その中で雄太が目を引く科目は新しい分野のコンピューター関連授業であった。電子計算機と呼ばれたことも多く、日本はまだ手探り状態で、この分野は「黎明期」であった。後年、このコンピューター分野に携わった友人も数多く存在することとなる。

【前回の記事を読む】贅沢三昧というわけではない!議員の家族たちの意外な暮らしぶり