重綱さまは二人の姉妹をわたくしに預けたまま、放りっぱなしだ。「阿梅はこの地に慣れたようか」でもなければ、手習いの上達ぶりを聞くわけでもない。まったく二人のことは忘れ去ったように話題にしないところがかえって不自然だ。女のわたくしでさえ感じる阿梅の風情が、「男さん」である重綱さまの目に止まらないわけがないではないか。
数日前に親戚の法事でしばらくぶりに会った老人が、若いころの重綱さまの美貌を語っていたことを思い出した。輝くばかりの美丈夫だったそうである。女たちばかりか武将たちからも大変にもてはやされ、特に小早川秀秋どのからは執拗に追い回されて、ずいぶんと難儀したようだったと言った。思いあぐねて、伊達さまに悩みを訴えたのだとか。
重綱さまについてのその手の噂話は、回り回って十年以上も経ってから、一番最後にわたくしの耳に届くのであろう。それにしても、重綱さまが小早川どのについての悩みごとを伊達政宗さまに訴えたと聞いて不思議でならなかった。そんなことは、おのれの裁量で何とかするものではないのだろうか。
その当時、小早川秀秋どのは関白秀次さまに次いで、豊家の跡継ぎの二番手だったそうだ。伊達さまに悩みを訴えるについては、それだけ気遣いしなければならないおひとだったのですね、と言うわたくしに、酔いのまわった老人は好色そうな目をついとそらして、ふふ、とただ含み笑った。
陸奥守さまからも重綱さまからも、老人の言うような雰囲気などみじんも感じたことがない。それでも老人の意味ありげな意地悪そうな目は、いつまでも心に焼き付いていた。わたくし側の親戚には、伊達軍に打ち負かされた当時の生き残りもいて、全員が重綱さまを大事に思ってくれているわけではないのだ。
それでも、わたくしはこの短い間に、驚くような人と人との複雑な関わりについて、考えをめぐらすことができるようになったと思う。それもこれも「若さまも男さんですから……」と言ったおこうの言葉の力が大きかった。思うに重綱さまは、わたくしの夫であり娘の父親であって、今もって「男さん」ではないのだ。
「男さん」の正体がわたくしにはいまだによく分からない。それでも、おこうのその一言はわたくしの頭の中の霧を、ほんの少しだけだがはらってくれた。立ち込めていた霧は、おのれ自身が作った、わが身を護る目隠しだったのかも知れない。