マスコミが取り上げるようなレベルではなく、体罰とも言い切れないものであっても、確実に子どもの心は傷ついている。
最近になってようやく、生徒の人格を否定するような暴言が体罰と同等の扱いを受けるようになった。それでも、こうした教員の愚行に苦しみながら、声を上げることもできず、悶々としている子どもたちは少なくないだろう。
このままでは公立学校は、子どもたちからも保護者からも、そして世間からも見放されてしまう。一日も早く教員の意識を変えなければならない。校長時代、ずっとそう思ってきた。
しかし、退職して客観的に学校を見直してみる時間を得て気がついた。本質的な問題は教員の意識のレベルに収まるものではないということに。
なぜ教員の暴言は後を絶たないのか。どうして教員がこれほどまでに周囲から非難されるのか。そして、非難されていることに気づきながら、なぜ「不適切な」言動を続ける教員がいるのか。
さらに、いじめはなぜなくならないのか。
不登校はいったい何を示唆するものなのか。
これらの問題を丁寧に紐解けば、すべて同じところに行きつく。教員の意識レベルだけで考えている限り、見えてこないものがそこにはある。
本質的な問題は、学校(特に学級)が明らかに制度疲労を起こしているところにある。
学校というシステムは、社会の多様化とそこから生まれる相対化の波を無視するかのように維持されてきた。当然そこに歪みが生じる。多くの教員はそれに気づくことも、根本的に改善することも許されず、ただ現実と崩壊しかかっているシステムの狭間で苦しめられている。
そして皮肉なことに、多くの教員は無自覚のまま自分を苦しめているシステムに寄りかかって、むしろそれを支えようと必死になっている。その努力が実れば実るほど教員はさらに苦しめられ窮地に追い込まれる。こんな悲劇はない。
すべてがそうだとは言わないが、暴言などの「不適切なかかわり」は、そうした状況の中で追い詰められた教員の叫びでもある。そのことに当の教員ですら気づいていない。
私は、教員の暴言や「不適切なかかわり」を擁護するつもりはない。暴言はあってはならないし、体罰はもっとよくない。非違行為(盗撮やセクハラ等)などに至っては、まさに論外である。
そうした教員によって深く傷つけられた子どもたちの心は、そうたやすく癒えるものではない。教員はいまこそ襟を正し、その罪を素直に認めなければならない。
しかし、それでも私は敢えて言いたい。傷ついた子どもたちを生み出してしまった責任は教員だけにあるのではない。