鬼怒鳴門氏と俳句

「風姿花伝」を著わし観世流の能を世に残した日本の代表的文化人世阿弥は、晩年足利義教の反感により佐渡国に流刑となった。この世阿弥が眺めたであろう月に思いを馳せながら詠まれた一句がある。

罪なくも流されたしや佐渡の月 キーン

作者は米国コロンビア大学教授、ドナルド・キーン、日本に帰化後日本名、鬼怒鳴門氏である。彼は何度か訪れた佐渡の酒席でこの句をさらりと書いて見せたという。

第二次世界大戦で日本語の通訳官として沖縄戦ではガマに潜む住民に投降を呼び掛けたり、捕虜の尋問、日本兵士の残した書簡の翻訳などの任務に当たっていたという。日本語や日本人の心情に触れる多くの機会を通して日本文化の土台に惹かれていった彼は、結果日本文学日本文化研究の第一人者として、それを世界に発信する業績を上げた。日本の詩歌、特に俳句、短歌などの短詩型文学に造詣が深く、芭蕉や子規についての著作もある。

「日本人は五七五の短い詩型を二千年以上も前から使っている。それは他の国には無い現象。日本人の誇るべきこと。」

キーンは著書の中でこう述べている。特に歌人や俳人を名乗らぬごく普通の人々、子供から老人までこの詩形に親しみ、特に俳句を趣味とする人々は多く、このような国は世界に日本以外無いともキーンは語っている。

私もこれまで歩き回ったあちこちの道端や寺社、公園、墓地、史跡……で数え切れぬ程の句碑を目にし、俳句が日本人の心にいかに広く深く浸透しているかを見る機会が多くあった。芭蕉が立ち寄らなかった場所にも芭蕉の木像を祀るお堂を見たし、芭蕉句碑は至る所に多い。発句石と呼ばれる大石と投句箱があったのはかなり健脚コースの丹沢登山道だった。

今、俳句の同人誌は全国に千を超えると聞く。先週はテレビで高校生が学校対抗の俳句競技をする番組を観た。最近も散歩の途中で興味深いものを見つけた。私の住む多摩丘陵地域はまだまだ多くの自然や田畑が残るが、その辺りの一軒の農家の裏にいくつもの句碑があるのを見つけた。古びたものから最近建てられたと思われる新しいもの、何作かが列記された大きなものもあった。

特定の場所に句碑が多く集められているのはこれまでに何度か見たが、畑地しかないこの場所にこれだけの立派な句碑がある理由が知りたくて後で地元史の資料を調べてみた。川崎市の北、黒川村と呼ばれていたこの地域は江戸時代早くから寺子屋が作られ農民も学問をするものが多く俳諧も盛んであったという。地元の名もない人々が自作の句碑を村に残したものだったようだ。

今もこの辺りはいくつもの俳壇があり、最近もここに新たに句碑を建てる式典があったらしい。ドナルド・キーンは、「目で聞き耳で見る」俳句は日本人の宝だと言った。自身で句を詠む人々は勿論、名句を味わう楽しみを持つ人々も含め宝を手中にしている多くの人々が日本中にいるのだと改めて思う。

二〇一三年四月