【前回の記事を読む】【時代小説】「どこからついて来た?」足元に纏わりつくあどけない仔犬に少年は…

湖上の城

十一年前、源五郎がまだ幼い頃に、父資頼(すけより)渋井右衛門太輔(しぶいうえもんだゆう)を討ち手に入れた岩付城である。その後、取ったり取られたりを繰り返す事となったこの岩付城は、舌状台地上に築かれ北から東を荒川が囲繞(いにょう)し、その内側には帯曲輪(おびくるわ)があり南西方向を除いて天然の沼である堀に囲まれている。湖沼を城内に取り入れ、総曲輪型城郭の縄張りが施された完璧な外郭を有する近世城郭は、日の本広しと言えど、当城のみと言えた。

この岩付城の城主は、父資頼より家督を譲られた太田資顕(すけあき)、源五郎の兄で二十九歳とまだ若い当主である。源五郎は生まれたばかりの妹と共に、父、兄夫婦とこの岩付城本丸で暮らしていた。その源五郎がこの刻に一人歩いていたのには特に理由などなく、城に己の身の置き所が無いように感じられ、所在なく城の近辺を散策していたにすぎない。

嵐の予感に帰路を急ぐ気になった源五郎は、

「さぁ、戻るとしよう。心配いたすな」

と仔犬を気遣った。後に北条家が曲輪を増設する事になる湿地と雑地の境目を通り抜け、諏訪神社の裏を抜けて坂を上り大手門まで歩いて来ると、門番が仔犬をかかえた殿の弟君である若殿を見て、やや怪訝そうな顔をしたものの深々と頭を垂れた。

大手門をくぐるとすぐ空堀に架かる橋を渡り三の丸に入る。侍屋敷の角を曲がり、裏の空堀を尻目に見ながら武具蔵の前を左に折れ、二重にも三重にも縄張りされた空堀に架かる橋を渡って、本丸内にある居館まで辿り着いた。

三丈ほどの高さにある本丸から曲輪群を見下ろした時……。一陣の風が湖上を波立たせこちらに向かって来た。それは夏草をなびかせ、源五郎とつき丸に吹きつける。つき丸が源五郎の胸で、その風を嗅ごうと上を向いた時、主殿の奥から声がかかった。

「何ですかその犬は? 汚らわしい」

その声の主は源五郎の兄嫁の椚田姫(くぬぎたひめ)である。このとき齢二十七、気の強そうな声で畳みかけるように言ってくる。

「早く捨てて来なされ! よもやその畜生を飼おうなどと(おぼ)()されではないでしょうな?」

実は源五郎、人の心を少しも汲もうとせず、ただ己の感情のみをぶつけてくる、そんな兄嫁が嫌いだった。

資顕の正室である椚田姫は武蔵国(おし)城主成田親泰(ちかやす)の娘で気位(きぐらい)が高く、義父にあたる資頼の側室として入った源五郎の母は、足立郡与野郷(さいたま市中央区)・笹目郷(埼玉県戸田市)を領する郷士、高築次昴左衛門(たかつきじみょうざえもん)の娘であった。

高築は資頼より太田の姓と下野守の号をもらい、太田下野守を名乗る家臣の身分である。その娘である側室の子の源五郎は、世間知らずな椚田姫から見てさえも大器の片鱗が見受けられ、なかなか嫡男を生む事が出来ない正室の焦りや嫉妬が、怒りややっかみとなって源五郎とその母雪乃に向けられるようになっていった。