このような生活とは反対に雄太の郷里では両親ばかりでなく、兄も雄太の破天荒な振る舞いからトバッチリを受けて不平たらたらと聞いた。兄の信正は雄太ほど身体が頑健ではないにもかかわらず、弱い身体に鞭打って農閑期には土方仕事で日銭を稼ぎ、雄太への送金の一助としていたと言うのだ。

昔の中国では科挙制度があり、成績優秀で秀才、進士などに合格して出世の糸口を掴んだ若者が現われると、親戚や一族で応援(主に金銭的援助)して出世後のオコボレを期待した。しかし優秀でもない雄太のために土方仕事までして働いた兄、大体将来に期待が持てない雄太に対して不満を持っていたのは当然と言わねばならない。

何故滴り落ちる汗を手の甲で拭うまで働いて、雄太への仕送りをせねばならないのかと兄は忸怩たる思いであったと聞く。

人間とは「額に汗して金を稼ぐべきである」との格言が雄太の家系には家訓として存在した。両親は兄の働く姿を見て気の毒と思ってか、兄の信正に「一人しかいない弟だもの力になってやれ! そのうち雄太から恩を感じて手助けとなる時もくるよ」と慰めたと聞いた。しかし待てど暮らせどの「宵待ち草」だからか今もって見返りはない。

雄太は兄の苦労もどこ吹く風だからどうしようもない。

靖国神社は九段高校の向かい側にあり、九段議員宿舎の隣には逓信病院の広大な建物である看護婦寮があった。さらに二百メートル程歩くと政京大学があった。飯田橋駅へ行く場合は宿舎の東側から坂を下って行くが、帰りは傾斜が緩い上り坂となる。この広い議員宿舎の番地は千代田区富士見町二ー五である。

昔この地から富士山が見えたのであろうか? とは先に書いた。今では高層ビルが立ち並んでいて背伸びして眺めても、富士のかけらさえ観られないのは当然である。

雄太は時々自炊をする。坂を下って行くと飯田橋駅から靖国神社へ向かう通りにも小さいながら精肉店が並んでいて店先でハム、鯵フライ、烏賊フライなどの揚げ物を買ってきておかずにする。ついでにお酒を買うのは勿論忘れない。お酒は部屋に帰って妄想に耽るのには事欠かせない。