第1章 神様との関係性の正しさ=「義」について
第1の義
この「全人類の霊の立場が無原罪にされた事実」を証明するのが、歴史的時系列表現である西暦元号が、BCからADへと変化したことです。信じたクリスチャンだけが「救われる(次の第2の義)」という、巷の解釈は正しいけれども、それならばこの地球規模の時代呼称の変化にはなり得ません。ですから神様の意志として、個々人の信仰以前の取り扱いであることも、はっきりするのです。
第2の義
第1の義の立場を原点として、そこから個々に霊的覚醒で始まる信仰の世界。《十字架の死による罪の赦しと贖いを達成したイエス・キリスト》を、救い主と信じて告白した者が置かれる、「神様の陣営につく者として新生した」霊的立場です。
しかしパウロが霊的幼児と指摘している〔罪の赦しだけを信じる初心者信仰〕として=「罪の赦し」の信仰告白と「水のバプテスマ(悔い改め)」だけで、まだ聖霊を受けていない信仰レベルの霊性です。プロテスタント教理の主流派。
十字架の目的は「罪の赦し」であって、聖霊を受けることへの論理的根拠が備わっていないので、「信じたレベルに比例した祝福を契約」としている神様が、その救霊基準通りに「罪の赦し」に置いてくださった立場。従ってサタンに勝利すると約束された勝利者には到達していないというべき状態です。[あなたの信じた通りになるように]が信仰の定理です。
だから「救われた者の行動=神の義」を実行できるようになるためには、「信じる」内容が「十字架による罪の赦し」から、「神の子とされる論理性」に変わらなければなりません。そして信じるためには学んだ知識の納得性があることが必須要件です。その知識を熱心に聖書から学び取らねばなりません。
その納得性とは、「神様から発生した論理的な根拠であること」です。人の知性だけでどんなに崇高な概念を語っても、神様の保証がないなら、簡単にサタンに惑わされます。