【前回の記事を読む】「確信ある信仰」を持つには…「信仰」の定義を洗い直さなければいけない理由
第1章 神様との関係性の正しさ=「義」について
――キリスト教はイエス・キリストを仲介者とした、神様と人類との「血の契約」です。
多くのクリスチャンと呼ばれる人々が、自分の「救いの確かさ」を把握しておらず、自分の信仰を論理的に証明することができていません。
それは「神様の性格」を正しく捉えていないからであり、自分の「信仰の根拠」に、《信頼する神様》が存在しないからとまでいえます。
その理由は旧来の旧約聖書教理や、巷での「神認識」が、苦難や試練をもたらす神、理性で納得できず人智では計り知れない神であるとする、「救いへの半信半疑」理解なので、絶対的な信頼を寄せていない/寄せられない結果に陥っているためです。ここから脱出しましょう。
*本書は「義」すなわち神様との霊の関係性の確立=「人の霊の正しさ」を3段階に分類しています。そしてそのレベル毎の自意識として、神様への「義の筋を通す」ことを、霊的成長として明らかにしています。この区分を知らないことが初歩に留まる信仰であって、霊性の成長の足かせになっています。
第1の義
イエス・キリストの十字架の死で贖われた「全人類の」霊的立場。すべての人々が負わされていたアダムの原罪(神への背反)の咎とがからの解放と赦し。被造物である人との霊の関係性を取り戻すために、神様が「憐れみ」によって一方的に修復した、《信仰によらない全人類の霊の[無罪性]の立場》。準備段階の完成。
すなわちだれであっても直ちに神様のもとに立ち返られるための「平等な前提条件」です《神(創造主)の基準として「信仰以前ながら、〔サタンの支配からの開放(罪がない者)〕とする霊的関係性」》。
それは「マタイ12:31節」の聖霊を冒涜すること以外、どんな罪も(霊の上で)赦されることの根拠。――すべてを自由意志の結果とするため。――しかしキリストの働きを信じない(聖霊を冒涜する)ならば、最後の審判で裁かれる立場です。
《尚、この世的犯罪は、加害者はすべて結果責任を負わなくてはなりません。それが「律法が永遠に全うされること」です。人類愛だからといって社会システムが悪を赦したり、刑罰を減免したりするのは、神様の意志に逆らう罪です。
加害者の罪を赦せるのは唯一、被害者のアガパ愛による「犯人を赦します」という意志表示によってのみです。ここを多くのクリスチャンが勘違いしています。》