駐米日本大使への誘い
「おーい、ケン坊はいるか?」
我輩のご主人は家に帰るなり、大きな声で我輩を呼びながら居間のソファーにどっかと腰を下ろした。いつもはご主人の車の音を聞いたら玄関先に出迎えてご機嫌を取るのだが、この日ばかりは午前中に坊ちゃんのご機嫌取りでクタクタに疲れた上に、午後のうだる様な猛暑を避けて裏庭で寝そべっていたため出迎えの挨拶が遅れてしまった。
驚いたのは他でもない。我輩を呼んだその声の調子に近年感じなかった興奮と困惑と躊躇が入り混じった複雑な響きを敏感に感じ取ったからだ。
我輩のご主人は三年ほど前に海軍の予備役になり皇族の子弟教育現場の院長に就任。それまでのドロドロした軍事、政治の世界から遠のいて、本人の気性に合った、のんびりした清廉な余生を送っていたのに、昨年外相に抜擢されて再びドロドロの世界に戻った。
と思ったら、今度は四か月ほどでクビになるなど今一つ落ち着かない。そのため余計その複雑な響きを感じたのかもしれない。
早速、我輩独特の嗅覚が働きだした。
「ウ~ン、何かあるぞ、これは……」。
傍に寄っていくと
「ケン坊。いや困った事になった。『駐米大使を引き受けてくれんか?』と言われたよ」
という。
「おやそうですか。それで、お受けになったんですか?」
と聞くと、
「いや、まだだ。あまりに唐突な話だし、昨今の日米関係は大分こじれてしまっている様子で、儂に何かできることがあるとは思えないからな……」
と心の奥底に潜む自負心を隠しながら自嘲気味に嘆息する。
我輩はいつものことだと驚いた様子も見せずに、
「そうですか。じゃ、きっぱりとお断りに?」
と多少嫌味を込めて重ねて問うと
「いや、そうきっぱりと断るのも相手に悪いと思ってね。また断ろうと思えば何時でも断れるし、『今日のところは少し考えさせて欲しい』ということで帰ってきた」
という。
そんなご主人の嘆息を耳にしつつも我輩の持つ嗅覚は、
「口ではあのように言っているが、腹の底では自分に白羽の矢が立ったことを喜んでいるに違いない。あの困惑した顔の何処かに『昨今のこじれた日米関係を修復できる人物は自分を措いて他におるまい』という密やかな自負心を蔵しているように見える。まるで
『乃公出でずんば、蒼生を如何せん』とでも言いたそうな……」
と、全く別の感覚を敏感に嗅ぎ取っていた。