【前回の記事を読む】【小説】議員宿舎で過ごす日々…先輩のおごりで神楽坂の料亭に

第三章 宿舎での生活

ビールの注文より早く〈加賀鶴〉が持ってこられた。山本さんからなみなみと注がれた盃を宙にとり雄太はいただいた。上品な甘味とさわやかな酸味が口から喉にジワッと広がり、何とも言われぬまろやかさを味わった。酒好きの雄太は天にも昇るような幸福感に酔い痴れた。

「よくこんなお酒が置いてあるのを知っていましたね!」と山本さんにきくと「青山君、それはね。この店の主人が親父さんの選挙区の金沢出身で、特別に取り寄せてもらってるんだよ。親父さんも気に入っている酒でね」と説明してくれた。

九段議員宿舎もそうだが、時々山本さんが泊まる岡田議員の部屋や雄太の部屋での座り方、すぐあぐらをかく癖はここでも同じだ。畳の部屋なので自然とこうなるのである。

テーブルを前にして正対した二人、運び込まれたビールでまた乾杯、山本さんは何に対しての乾杯かとちょっと思案顔となったが「そうだ再会を祝してにしよう、青山君との再会に乾杯だ!」と二人してお酒がなみなみと注がれたグラスを高らかに宙に浮かせ「カチッ」と音を響かせ乾杯した。

色白の山本さんはその頬が桜色に変わるのに幾許もの時間を要しなかった。自分より十歳も若い学生の雄太を前にして早くも寛いでいる。雄太もなけなしの一張羅を着こんでいるし、元来が奥手なので二人しての同席でも違和感はないであろう。

店側もまさか雄太が学生だとは思わないに違いない。議員秘書同士の打ち合わせぐらいに思ったことだろう。もっとも店側は二人がどんな関係か知ったことではない。お金さえ払ってもらえればそれでいいのだから。

雄太といえば酒の飲めない家系に突然変異で降ってわいた如く酒に強く、表情にも乱れがない。しかし陽気にはなる。山本さんは一通りの政界関係のお話を一席ぶった後、もじもじしている様子であった。が、どうしても打ち明けたかったのか、ゆっくりと舌で唇をなめながら「実は親父さんと同じように僕にもお妾さんがいるんだよ、驚いただろう青山君」と言う。

議員秘書は議員先生を「親父さん」と呼ぶのはどこも同じだ。但し議員本人の前では「先生」である。雄太も関心があった。求めもしなかったにもかかわらず。山本さんは大切にしているのであろう、いつも持っているに違いない、封筒に入った一枚の写真を背広の内ポケットから取り出した。

何度も出したり、しまったりしているのであろうか、困った時とか嬉しかった時には封筒から写真を取り出して語りかけていたのであろうか、「今度の司法試験の結果、気になるなあ!」とか、「今日は思いもかけない「寸志」があって嬉しかったよ!」と写真に向かって呟いていたのであろうか、封筒はやや擦り切れていて年季が入っている。

「これが彼女ですよ」とやや恥ずかしそうに写真をそっと取り出して、テーブル上を雄太の方へ滑らした。写真に写っていたのは清楚な感じで、玄関前に敷かれた砂利に佇む粋な姿、ほほ笑んだ姿、和装が良く似合った一人の女性の写真であった。なかなかの美形である。年の頃は二十代の後半から三十代前半というところか。

今では考えられない。その頃の時代と言えば、働いていた女性は結婚すると同時に「ご苦労さんでした」と寿退社としてもて囃され、家庭に入る風潮があった。今の時代は夫婦共稼ぎが当たり前だから、時代は変わったものだと感じざるを得ない。