■ 明治初期における「東京大学」の位置づけ
さて、坪内逍遙はこうして成立したばかりの東京大学文学部の一年生となりました。戦後の東京大学も、その前身である東京帝国大学も、日本にいくつも存在する高等教育機関のトップに位置する学校と見なされてきましたし、今でも見なされています。だから、高等教育機関にはるかに希少価値があった明治一一年に東京大学に入った坪内逍遙ならなおさらのこと、エリート中のエリートと自他共に認めていたと言いたくなるのですが、事情はそれほど単純ではありません。
この時期の東京大学とは、文部省管轄の高等教育機関に過ぎませんでした。と聞くと、学校が文部省(現在は文部科学省)の管轄なのは当たり前じゃないかと思うでしょうが、この時代にはそうではなかったのです。
司法省(現在の法務省)は法学校、工部省(現在の国土交通省)は工部大学校、開拓使は札幌農学校、農商務省(現在の農林水産省と経済産業省)は駒場農学校という、それぞれ高等教育機関を擁していました。
当時は民間企業が今ほど育っておらず、高等教育を受けた若者にとっては中央官庁が重要な就職先でしたが、各省庁は自前の学校を出た人間を優先して採用しますから、東京大学卒業生は医学部を別にすると必ずしも有利な立場にあったわけではなかったのです。
そしてこの時期、東京大学に進学するための予備門に学んでも、中退する学生が少なくありませんでした。つまり、東京大学に進むことには強い魅力が感じられなかった、ということでしょう。
社会学者の竹内洋はこの時期の東京大学を八ヶ岳と呼んでいます。唯一の最高峰ではなく、複数ある峰の一つだということですね。では東京大学はいつ特権的な存在になったのでしょうか。
それは文部省の大臣に森有礼が就任し、明治一九年(一八八六年)に帝国大学令を発したことによっています。司法省の法学校や工部省の工部大学校などが東京大学と合併し、「帝国大学」が成立します。「東京帝国大学」ではありません。日本全国に帝国大学はこれ一校しかないのですから、わざわざ「東京」と入れる必要もなかったのです(帝国大学が東京帝国大学と改称したのは、京都に第二の帝国大学ができた明治三〇年)。
これにより帝国大学は唯一無二の高等教育機関となり、大きな権威を帯びるに至りました。森はまた同年に師範学校令、小学校令、中学校令などを公布し、明治維新以降しばしば揺れ動いてきた学校制度の安定化に寄与しました。