【前回の記事を読む】「進学に強い魅力がなかった」成立期から一転、東大が特権的な学校になったワケ

第一章 日本近代文学の出発点に存在した学校と学歴――東京大学卒の坪内逍遙と東京外国語学校中退の二葉亭四迷

第一節 坪内逍遙

■明治初期における「東京大学」の位置づけ

話がやや先走りました。坪内逍遙はそういうわけで、帝国大学の一部となる以前の東京大学で学んだわけです。本来東京大学は四年制でしたが、逍遙は一年落第して、明治一六年(一八八三年)に卒業します。ここで逍遙は西洋人の教授によって西洋近代文学を教えられ、有名作品や文学論などを次々と読んでいくことになります。

文学熱は逍遙だけでなく、当時の東京大学の多数の学生を捉えたようです。その一人に逍遙の親友であった高田早苗がいました。早苗といっても男性で、のちに大隈重信と共に東京専門学校(後年の早稲田大学)の設立に関わり、早大の総長を務め、また国会議員にもなったという人物ですが、逍遙はやがてこの友人との関係から早稲田大学の教授となるのです。

改めて強調しなければなりませんが、この時代には西洋文学の日本語訳などは存在せず、すべて英語かその他の西洋語で読まなければならなかったのです。したがって逍遙も大学に入るまでは西洋文学についてさほどの知識を持っていませんでした。今のように早熟な中学生が翻訳で外国文学を読むというような環境にはなかったのです。

実際、名古屋に住んでいた時分の逍遙は、馬琴などの稗史小説や江戸の戯作文学を愛好する若者でした。歌舞伎にもよく通っていたようです。そうした方面の逍遙の知識は相当なもので、東京大学の学生たちを驚かすほどであったといいます。つまり、逍遙のいわば肉化された文化的素養は江戸期のそれだったということです。

これに対して、大学に入ってから学んだ西洋近代文学の作品や理論は、言うならば頭で理解した知識だったと言えましょう。

そして逍遙は頭で理解した知識で、近代文学の理論書『小説神髄』とその実践としての小説『当世書生気質』を書いたのでした。