【前回の記事を読む】映画監督・木下恵介に「あんな理想的な夫婦はめったにいない」と言わしめた祖父母の姿とは
第一部
祖父母 (周吉とたま) ──尾張屋のはじまり
恵介は、映画監督として有名になってのち、取材を受けたとき、次のように語っている。
「監督として世に知られるようになってから、自分が今こうして仕事をしているのは、すべてあの両親に育てられた結果であり、作品を作るときは常に親を意識し、親に観せても恥ずかしくないものにしなくてはならないと思っている」
恵介の映画を観れば、必ずと言っていいほど親の愛が湧き出ている場面があり、そんな場面がなくても、根底には親の無償の愛が感じられることに気づくのである。
恵介は、両親から叱られた記憶がなく、非常にかわいがられたと語っている。
その祖父母は、「尾張屋」を失い、戦後しばらくは浜松で定まらない生活をしていたが、一九四七(昭和二十二)年恵介が建てた辻堂の家に来て、ようやく安住の生活を送ることができた。
しかし祖母・たまは、その数年前脳溢血で倒れてからはほとんど寝たきりの生活で、翌年の十月十三日、六十八歳で他界した。五十年近く貧しい中で助け合い、八人の子供を育てながら一生懸命働いてきた最愛の妻を見送り、祖父・周吉はどんなに寂しかったことだろう。たまの下の世話は全部周吉がやっていたと聞く。
周吉はその五年後、一九五三(昭和二十八)年五月六日七十六歳の生涯を閉じた。筆者は辻堂の家で祖父母と一緒に暮らしていたが、祖母のことは覚えていない。しかし、優しかった祖父のことはよく覚えている。