【前回の記事を読む】飴1つ買えないほどの時代から一変…「尾張屋」を継いだ長男の手腕
第一部
長男 寛一郎 ── 一家の長として
十歳下の四男・正吉(恵介)にとっても寛一郎は厳しい兄だったが、頭が良くて頼りになる存在だった。正吉が小学生のときには結婚して、義姉・みきが嫁いできたが、優しい人で働き者だったので、母のたまは、正吉の世話を今まで以上に焼いてくれるようになった。
兄の寛一郎は、両親からの信頼は絶大のものだった。正吉が映画の道に進みたくて家出をした十八歳のとき、両親が何とかその願いを叶えてあげたいと思ったのは、寛一郎も熱心に応援してくれたからである。
恵介が映画監督になるまで生きられなかったが、恵介の才能を兄弟の中で一番見抜いていたのかもしれない。
生存中の寛一郎の人柄を表すこんな出来事があった。昭和初期の世界的大恐慌は、日本を巻き込み、未曽有の不景気の真っただ中。天竜川に架かる橋を、職を求めて東から西へ、西から東へと大移動する失業者の群れが後を絶たない。
寛一郎は、家にあるたくさんの米を炊き出して握り飯を作り、お腹を空かせた人のために橋のたもとに運ぶことを思いついた。まだ夜明け前の戸外は真っ暗な時間に、家中総動員で握り飯を作り、それを大きな四角い箱に並べて何段にも重ね、自転車の荷台に乗せて天竜川の橋口へ運んで、歩いて来る一人一人に「お疲れ様です」と言いながら配った。
八郎は自転車の荷台に積んで、手伝ったことを覚えている。握り飯が食パンに代わったこともあったが、これが何日か続いたのである。我が儘いっぱいに育った八郎は、このとき、米は無くなっても家には金がある。金があればまた米が買える。金は食えない人を救うことができるということを、長男の寛一郎の行いから学んだのであった。