寛一郎の死は、初めに二人の子を失っている両親にしてみれば、こんなに辛く悲しいことはなかった。まだ名古屋にいた頃の貧しい時代に生まれた寛一郎には、他のどの兄弟よりも苦労させてしまった。しかし寛一郎は、そんなことは意にも介さず、一生懸命に働いて、浜松でも屈指の「尾張屋」を築くために頑張ってくれたのである。

我が儘一つ言わずに早逝してしまったことが不憫でならなかった。頼もしい長男を亡くした痛手は大きかったが、しっかり者の嫁・みきが、本店の仕事を取り仕切ってくれていた。

祖父母は墓を作って寛一郎の死を悼み、弟妹たちが集まって長男を弔ったのである。寛一郎が他界した一九三六(昭和十一)年は、私(筆者)が生まれる九年も前のことである。しかし、寛一郎の妻・みきは九十五歳まで生きた人だったので、浜松の蜆塚にあったみきの家には、八郎に連れられて私は何回も行っている。ここでは、そのみきについても書いておきたい。

蜆塚は、終戦後忠司が、四年九か月の軍隊生活を終えて気多にいた両親に会ってのち、祖父の周吉と二人で、土台固めから始めて家を作ったところである。途中から大工さんが来て、当時としてはまずまずの、二間と土間のある家ができ上がった。この家で、寡婦になった寛一郎の妻・みきが三人の娘たちと暮らし、周吉と病床にあったたまの面倒を見ていた。

娘たちが結婚してからは、みきは一人で住んでいた。私が静岡に行ってから八郎と一緒に、鯛めしや安倍川餅などのお土産を持って訪ねて行くと、みきはとても喜んだ。楽しそうによく笑い、二人は「尾張屋」の昔話に花を咲かせていた。「尾張屋」の繁栄は、長男・寛一郎はもとより、妻のみきの力に負うところも多かったのではないだろうか。木下家にとって、とても大切な人だったと思うのである。

長女の作代の娘・典子が恵介の映画『夕やけ雲』に出たときは、作代はたびたび辻堂に行っていた。長期にわたると、みきは作代の家に家事をしに来て、学校の教師だった作代の夫・徳平や、他の子供たちの面倒を見てくれた義姉であった。

静岡でも、私が中学一年のとき父・政二が亡くなり、その翌年、母・房子と八郎が婚姻届けを出して、初めて二人で一週間の新婚旅行に出かけたことがあった。房子の郷里である九州地方の旅の間、みきは静岡まで家事をしに来てくれた。いつもにこやかな優しいこの伯母が、私は大好きであった。

晩年は、蜆塚の家に長女富代の子供が様子を見に行っていたが、寛一郎亡きあとの六十年近くを生き、九十五歳で亡くなった。

蜆塚は私にとっても、とても懐かしい場所であり名前である。あの家は、今どうなっているのだろう。