第一部

長女 作代 ── 木下家待望の女子

無事に縁談がまとまり、作代が二十歳のときに一時帰国した徳平と結婚した。その後作代も南京に渡り、二年ほど向こうで暮らしている。

徳平が現地招集を受けたため、作代が長女・保子を連れて「尾張屋」に戻って来たのは、一九四五(昭和二十)年六月の浜松大空襲の前のことであった。

作代は幼い保子を連れて、同じ里帰りしていた妹の芳子、父・周吉とともに、浜松の奥地気多に疎開した。(母・たまは、病気で体が不自由だったので、兄・敏三と恵介がリヤカーに乗せて運んだことは別記)。みんな無事だったが、空襲で「尾張屋」は本店も支店も焼失してしまった。

終戦時の徳平についての詳細はわからないが、戦後は浜松の私立興誠高校の教師をした。教頭、校長へと昇進し、退職後七十五歳頃まで浜松短期大学学長を務めている。

浜松の中山町に家を建てた徳平と作代は、保子の下に典子、薫の三人の娘をもうけた。徳平はここで、二〇〇〇(平成十一)年に八十七歳で亡くなっている。

作代も、二〇二〇年四月、九十八歳で亡くなるまでの生涯をこの家で送った。母・たまの思いを受け継いでいたため、兄・恵介の妹として生きなければならなかった部分も多かったのだが。

恵介は一九四〇(昭和十五)年十一月の入隊後、中国へ出兵したが、翌年八月には怪我のため招集解除となり帰還している。このとき、原因不明の皮膚病に侵されていて、名古屋の病院に入院した。

たまは泊まり込みで看病に行かれなかったため、結婚前の作代が行った。恵介が完治するまでの一か月余り、作代は毎日ガーゼを取り換え、汚れた物を洗い乾かすなど、慣れない仕事に辛いことも多かった。

たまは、なぜ使用人を雇わなかったのかはわからないが、このことを知っている人間は少ない。完治した恵介は、その後大船撮影所に戻り、仕事に復帰した。

私(筆者)は、記憶にある子供のときからよく作代に会っている。辻堂にいた一九四七年から五五年(昭和二十二年から三十年)頃までは、夏休みなどよく子供たちを連れて恵介の家に来ていた。