第一部

六男 八郎 ── 親愛なるわが父

恵介が松竹を退社してテレビ界に移ったのは、武則が慶応を退学し、辻堂を出て福田道子と結婚した二年後、五十二歳のときである。その六年後、恵介五十八歳のときには、思い出の詰まった辻堂の家を売って、東京の麻布狸穴にマンションを買って引っ越した。

恵介はそこで八十六歳で亡くなったが、亡くなる一、二年前から、八郎と和解し、八郎は何回も静岡から病床の恵介を見舞っている。八郎は、自分が愛し抜いた房子や、一度は恵介の養子になった忍や、廣海の長男で東京に住んでいた孫の草介を連れて行った。そんな私たちをニコニコと迎えてくれた晩年の恵介については別章で記したい。

残念なのは、「武則は今どこにいるのか。武則に会いたい」という恵介の言葉に対して、五十歳を過ぎた武則は「僕は会いたくない」と、会おうとしなかったことである。

恵介は、武則に会って何が言いたかったのか。かつて自分の子としてかわいがった武則との再会を果たせぬまま旅立ってしまった。
一九九八(平成十)年十二月三十日、静岡で兄・恵介の死を知った八郎は、自分のノートに、ベランダに咲いた小さな花を押し花にして、次のような言葉を残している。

 恵さん死す
 この花の如く美しい人生でした
 可愛がってくれて本当に有難う
 想い出は遠く心に染みる
 想い出は近く心を悲しませる
 恵さん、恵さん、恵さん
 八郎、八郎、八郎と言ってください

恵介との交流が途絶えた後も、八郎は恵介が作った映画を必ず観ていて、恵介の作品が評価されたり賞をもらったりすると、とても喜んでいた。

私は教師となり、他家に嫁ぎ三人の子の親になったが、自分をこんなに愛してくれた八郎がいたことで、幸せな人生を歩んで来られたと思っている。二〇一六(平成二十八)年十一月、静岡の高齢者ホームで、母・房子と二人で八郎の手を握って、ただただ「ありがとう」と泣きながら見送ってから、もう六年になった。

人が良いばかりに財産を失ってしまった曾祖父・治右衛門のことを、祖父・周吉に嫁いだ祖母・たまが「あんな良い人はいない」と子供たちに話したように、房子は八郎のことを、「あんな良い人はいなかった」と口癖のように言っている。

八郎は両親を愛し、兄弟を愛し、初恋の兄嫁を愛し、自分の子ではない子供たちを愛した。ベランダの朝顔の花を愛で、美しい路傍の小石を集めて愛でた。

五十歳からボロ屋まがいの会社を興し、そこで得たお金で、養護施設の子供たちを貸切バスで富士山に連れて行ったり、貧しい人たちへ寄付したり、八郎はいつも弱い人間の味方だった。

兄・政二と恵介、そして妻・房子とその子供たち、いつも誰かのために一生懸命に生きた。そんな八郎に溺愛された私は、何と幸せな人生だったのだろうか。