長女 作代 ── 木下家待望の女子


木下家の兄弟は、六人の男に続いて、七人目は八郎の四歳下に生まれた作代であった。その二年後に、次女・芳子が生まれているが、周吉とたまが結婚後間もない頃、まだ戸籍にも書かれていない赤ん坊の女の子を失っているので、一九二二(大正十一)年八月の作代の誕生は、両親にとってどれほどの喜びだったことだろう。

両親だけではない。男ばかりの中に生まれた女の子の存在は、兄弟たちにも今までと違った明るさをもたらした。

その頃の「尾張屋」は、すでに浜松屈指の漬物や佃煮の卸問屋として、使用人も増えていて、店の仕事や外回りの挨拶などでたまは忙しかったので、幼い子供たち一人ずつに子守を付けて、事故が起きないように気をつけていた。

作代と妹の芳子は、父母や兄たちにかわいがられて育ったのは言うまでもないが、長男寛一郎とは二十歳以上も年の差があったので、寛一郎の四人の子供や、次男・政二の初めの妻との二人の子供たちとも一緒に大きくなっていった。

特に政二の子の安子と和司は早くに母を亡くし、政二は日本軍に入ったため祖父母が親代わりだった。祖母のたまは、幼い子供や孫たちを集め、
「お前たち、安子と和司を虐めたら許しませんよ」

と言い、大事に育ててくれたので、二人とも寂しいと思ったことはなかった。
女学校を出た作代は、琴やお花を習っていたが、そろそろ結婚を考える歳になった。

祖母がまだ女学生だった頃、浜松で優秀な女子三人に選ばれて、東京の帽子工場に勉強に行ったことがあったが、そのとき一緒に選ばれたきぬとは、長い間友達として付き合っていた。

きぬには、徳平という息子がいた。菊沖徳平は、大正二年生まれで恵介より一歳下、作代とは九歳離れている。徳平は、東京文化大学を卒業した学者肌の男であり、その頃は、中国南京の大学で日本語を教えていた。 

たまは、南京に出兵していた恵介に手紙を書いて、徳平がどんな人間か会って確かめてほしいと頼んだのである。頼まれた恵介が、どのようにして出かけたかは不明だが、徳平に会うことができた。急に訪ねて来た初対面の恵介に、風邪気味で寝間着姿の徳平は慌てた。だが、恵介の判断は作代の夫として合格、だった。

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