私が静岡に行った十歳からは、八郎に連れられて浜松に行くことがあったので、中山町の作代の家にも何回も行っている。

作代の家の三人の子供とは仲良く遊んだ。学校が休みのときは、私だけ数日泊まったこともある。作代は優しい叔母で、従姉妹たちを叱っている姿を見たことがない。一家の主婦として、夫の徳平に気を遣いながら小まめに動いている姿が目に浮かぶ。

私が一人で泊まった夕ご飯のとき、こんなことがあった。座卓に乗せられた七輪に鉄鍋があり、作代は煮えた野菜を子供たちの皿に入れてくれた。

最後にジューと肉の焼ける音と醤油の焦げる美味しそうな匂いがした。しかし、その肉は、「お父さんは一生懸命働いてくださるからね」と言って、徳平の皿にだけ乗せられて終りだった。

菊沖家の従妹たちはいつものことだったのだろうが、今までお肉でも何でも平等に食べていた私は、大いに不満だったのを覚えている。教師の給料だけで三人の子を育てることは大変だったのだろうと気づいたのは、もっとずっと後になってからのことである。

八郎は必ず手土産を持って行く人だったが、徳平は酒が呑めないのに、作代は気を遣って八郎に酒を用意してくれた。

帰りには玄関先で「もらいものだけど持って行って」と、徳平に送られて来た、真新しい靴下やハンカチなどを手渡すのである。当時の教師には、付け届けが多かったようだが、作代は家のことはもちろん、兄・八郎にも気を遣う優しい人であった。

三女の薫が一度盲導犬を育てる仕事をしたいと言ったときには、作代が伝手を探して長い手紙を書いてくれた。薫はその道には進まなかったが、作代は子供のために一生懸命だった祖母に似た人だったのだろうと思う。

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