長男 寛一郎 ── 一家の長として
周吉とたまは、名古屋から浜松伝馬町に移って小さな店を構えた。しかし、まだ人間関係も築けず、待っていても客が来ないので、作った漬物や佃煮を売り歩いていた。このことは既に触れたが、二歳の寛一郎がついて来たある日、欲しがった飴玉一つも買ってやれないほどお金がなかった時代があったのである。
寛一郎は、働き者の周吉と、人当たりがよく商売の才覚が備わっていたたまが、苦労して働いていた姿を見て育ったからか、小さい頃から利発な子だった。弟たちは、寛一郎兄さんだったらどんな難しい学校にも行けただろうと思っていたが、長男としての自覚が強く、上の学校に行くより当然のごとく「尾張屋」の跡取りになる道を選んだ。
二十歳になると嫁を貰い、店の仕事に才覚を発揮していった。妻のみきも長男の嫁としてよく働き、店の仕事だけでなく、女中さんたちをうまく使いながら、四人の子供を育てた。しかし、長男の国太郎を十歳の時病気で亡くしてしまったのは、悲しい出来事だった。
寛一郎の下には五人の弟と二人の妹がいた「尾張屋」は、だんだん大きくなり使用人も増えていき、生活は豊かになっていった。いくつかの売店を出せるようになると、伝馬町だけでは手狭になってきたので、本店は寛一郎夫婦に任せて、両親は千歳町に、もと旅館だった店を買って支店を出した。
寛一郎は使用人には優しかったが、弟たちには親に代わって非常に厳しかった。弟たちは親には叱られなかったが、寛一郎にはよく叱られたことを覚えている。
特にいたずら盛りだった末弟の八郎にとっては、十六歳も離れた兄は誰よりも怖くて苦手な存在だった。わんぱく小僧のレッテルを貼られていた八郎は、箸の持ち方が悪い、行儀が悪い、言葉遣いが悪い、家の中で走るなと、何かにつけて寛一郎に叱られていたのだ。
寛一郎に叱られると震えあがるほどだったと言い、小学校をさぼって遊んでいたとき、布団巻きにされて押し入れに入れられたこともあった。五男の忠司も一番怖かったのは長兄の寛一郎だったと、子供時代を振り返っている。