【前回の記事を読む】豊かだった台湾の暮らしから一変…敗戦後に日本に引き揚げた家族の実録
第一章 貧しき時代を生き延びて―終戦、そして戦後へ
台湾に生まれ八歳で日本へ
母子三人の山中の脱出
私たちは母の実家を離れ、父の故郷である大分県の菅生村で暮らすことになった。だが戦後の混乱の中で、誰もが自分たちだけの力で生きねばならぬ時代であった。外地からの引揚者である私たちに頼るべきものはほとんどなかった。
食うに困って父がはじめたのが、闇タバコの行商だった。どこで仕入れたのか、タバコの葉っぱを刻み、リュックに詰めて、闇市などで売りさばく。これはずいぶん儲かったようで、かなりお金が稼げたようだ。父も上機嫌で、そろそろ家でも建てようか、という話になっていた。
ところがある日、闇タバコを売っている現場を押さえられ、父は警察に捕まってしまった。そして竹田の刑務所に入れられてしまったのだ。
父を刑務所から出すには、お金が必要だった。母は家を建てるために貯めていたお金をほとんどはたいて、父を刑務所から出した。再び私たちは貧しい家族となってしまった。
父は今度はツテを頼り、杉の木を切って皮をはぐ仕事を見つけてきた。はいだ皮は家を建てるときの屋根材として使われる。戦火により家を失った人も多かったため、家を新築する際の材料として、需要はかなりあったのだろう。父はもともと手先の器用な人であったから、それなりに適した仕事であったのかもしれない。杉の皮を丁寧にのして、取引先に納めるまでが仕事であったようだ。
しかし杉の木を切るのは山の中である。そこで私たち家族は大分県の南西部に位置する竹田の町からさらに奥深い山中に、掘っ建て小屋を建てて住むこととなる。田舎暮らしどころではない。山暮らしである。もちろん電気も通っていなければ水道もない。これが日本での暮らしかと、驚くほどの貧しさである。
私は毎日、小屋から百メートルほど離れたところにある川まで行き、水くみをする役割を与えられた。小学校へは自転車に乗っても片道一時間以上かかるような距離にあったため、当然のごとく、通うことができなかった。何度か父に連れられて竹田の町には行ったが、まだ十歳にも満たぬ子どもの足ではそれだけでクタクタである。
この頃からである。父が変わった。台湾での豊かな暮らし、人を使って事業を営み、周りからもちやほやされていた時代があったからかもしれない。日本に戻ってきたものの、現実は予想以上に厳しかったのだろう。およそ文化的なものからは程遠い、社会の底辺を這うような暮らしは、父のプライドをズタズタにした。