思えば、この庶民史観に立てば、全人類史さえ、「この射程内に収まる」ことが思い知らされる。庶民は懸命に庶民史を生きれば良いことも、思い知らされる。

権力を持つ者どもの、主張と演出や演技の類いのお話には、信じない・驚かない・感動しないの基本さえ守ればいいだけの話である。これこそが、すれっからしの真骨頂なのである。強者が次々登場するどうでもいい風景として、軽くやりすごす習慣を身につければ、結構これはいけるし、居心地がいいものである。いかがであろうか?

ついで話は別方向に飛ぶが、パブロ・ピカソの「ゲルニカ」の話である。政治家・学者に加え、芸術家なるものに対しても、皆に倣っていちいち過度に感動しなくていいのではないか、との戒めの話である。

ゲルニカの事件に怒った彼が1か月で描き上げた作と云われるが、24時間×30日=720時間、怒りの絵筆を動かし続けたわけではない。

傍らには二人の女性がいたと云われ、画にはオス・メスの性器らしきものや母と子の死と人間再生のための女のオーガズムと悶絶が描き込まれており、性も性生活もあったのである。食って寝て排便し性行為もするなかで、彼なりに激しい怒りに絵筆を振るう行為があったのである。

要は、後世の人間たちは、全員揃って口を揃え、ありがたがる必要はないということである。柄になく過度に感動するのは、庶民の貴兄の体には悪いヨである。

庶民的には、やはり普通程度が身の丈に合っている。「すれっからしの庶民史」を生きようではないか。