この街に

その日を境に、思考力も理解力もなくして錯乱状態に陥った美子に、双方の両親は、ただ戸惑うばかりで、この境地から抜け出させる手段は見付からず、本人より心を痛めていた。

その一方、「わたしが歌会に出た、あの日、僕はひとりでスケッチに出掛けるといった彼を引き留めれば良かったのか。今日は家で描いていてと、言えばよかったのか。わたしと一緖に来週行こうと言えばよかったのか……」と、後悔とも迷いともつかない言葉が、あれから何度口から出たであろうか。

来る日も来る日も「わたしの不注意だった。あの日、ひとりで出かける彼を引き止めるべきだった。歌会の日と重なっていなかったなら……」と、美子は、同じ言葉を日に幾度となく繰り返していた。そのうえ、「今日が何日で何曜日かも判らない。日常生活もスムーズにゆかない。時間の感覚もない。食事も摂りたくない……」と、塞ぎ込んでしまう日が何日も続いた。

そのうち、時間の経過とともに少しは冷静になり、心も少しは落ち着いてきたと自覚できるようになった、ある日、美子は不意に何かに突き動かされるように、記憶の底から湧き上がって来る感触に、「あっ」と、思わず声を上げた。

「あれは、何時だったか? わたしは博さんに意地悪な感情を抱いた時があった。自分でも冷酷と思える冷たい目で彼を見ていた時があった……」と、あの日のことを思い出した。

その後、不意に口から出た言葉に美子は、自分のことながら仰天している自分を遠くから見ているという理解に苦しむ錯覚に陥った。

「わたしに罰が当たった。そう、博さんを失ったのは天罰だ。そして、わたしには二面性がある。あんなに優しい人を無視するかのような態度をとって平然としていた日があった……。わたしは単なる神経質だけではない。心の奧処には、意地悪な面と優しさを混ぜ合わせたような、異常な神経が潜んでいるのは間違いない……」と思い付いた。

「でも、これはどうしようもない。いまさら正常に戻すことは絶対に出来ない。そして、あの日から、わたしは何日泣いて過ごし、何日間、錯乱状態の日が続いたであろうか……」と、とりとめのないことを考えて落ち込んでいく自分を時には、意識する時間もあったが、其処から立ち直ろうとする意欲も力も湧いてこなかった。

それ以来、「自分の人格が少しずつ変わり、性格まで変わってしまうような気がする……。この不安な気持ちを、なんとか払拭しなければならない」と思う時もあったが、その方法を見付けることは出来なかった。

双方の両親は、美子の独り暮らしを心配して、「どちらかに同居を……」と、何度も勧めていたが、「それは、わたしの考えに反します。あの海の絵と、わたしの肖像画のある部屋で博さんとふたりで暮らします」と、誰にも理解出来ない勝手な理屈を並べ立てて、どちらの方法も選ぶことは出来なかった。

「でも、これは、わたしの心の弱さであり、狭量な性格で精神も異常だから仕方がありません。それに片方の両親に偏って甘えてはいけないと思います……」と、美子流の持論を何度も並べ立てた後、自分でも理解出来ない、いろんな思いが入り混じって、欝状態となり、再び、蓋の開けることの出来ない固い殻に閉じ込もって、ひとりの部屋で博を思っていた。