ある日、ふと何かに突き動かされるような衝動を感じた美子は、思い切ってワープロを開いた。その直後、液晶画面に現れた文字に思わずはっとした。その画面には、
湖に似る川を見て佇つひとときの寂寥感は何を予知する
と、歌会にも発表した一首が残っていた。
「えっ? これは……」と、美子は驚きながら、その画面に釘付けとなった。
「そういえば、あの日、ふと感じた根拠のない不安感と寂寥感は、このことだったのか……。博さんとの永訣をわたしの異常な神経の一部が感じ取っていたのか……。このことを予感したから、何を予知すると自分の裡に問いかけたのだ……」と思い付いた。
「そうだ。わたしは傍に誰もいなくてもいい。わたしには三十一文字というパートナーがいてくれる。歌を詠む力は少し残っているかもしれない。いえ、きっと残っているはずだ」と、美子は自分に強く言い聞かせた。
その日の夕方、「わたしは少しずつ元気になっている。日を追って冷静さを取り戻している。博さんが泣くなと言っている。元気を出せと言っている。わたしを見守っていてくれる……」と美子は自己暗示をかけた。
そして「わたしが、いま何よりも先ずしなければならないことは、博さんを天上の安楽の世界へ送り届けて上げなければならないこと。それには向こうの世界と、こちらとの狭間に横たわると言われる川を渡り、無事に彼岸へ辿り着けるように祈らなければならないことなのだ。
わたしが、こんな様子だと博さんは途方に暮れて進む方向を間違えてしまう。目的地へ辿り着くことは出来ない。だから、わたしと、こちらの世に心を残さないようにして上げなければならないこと。次にしなければならないのは博さんを向こうの世界へ送り届ける歌と、わたしの心からの思いを伝える歌を詠まなければならないこと」と、美子は今の自分には厳しいとも思える幾つかの課題を与えた。