十
予備校で先に声をかけてきたのは、沢辺のほうだった。躰は小柄だが筋肉質なガタイはたよりがいがあり、高校時代ロックバンドをやっていたらしく、長髪はその名残りのように目鼻立ちくっきりとした二枚目で、部屋にはエレキギターが立てかけてあった。ひいてもらったことはないが…。
彼はフランシス・ベーコンに惚れ込んでいて、いかに凄い画家かをよく聞かされたけれど、その頃の修作にはよくわからなかった。沢辺が熱っぽく画集を開いて説明するのだが…
どうしても、その肉がさけ、とけだし、むきだしの肉塊となって、暗黒に浮かび上がる画を、いつもまともには直視することができなかった。「うん、いいねー」などと適当な相槌をうっては、沢辺の機嫌をそこねないよう、気を配るのが常だった。
十一
グループ展はそれで終わった。二度とグループが集結することはなかった。ひと夏の燃えあがるような、若いエネルギーが渦を巻いた期間は、わずか一週間で幕を閉じた。よくしてくれたオーナーの何回も重ねていってほしいという願いを裏切ってしまったのは、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
結局修作にとって長い細々とした美術生活中、このグループ展までが、思うがままできた美術活動にもなってしまった。それを境に美術活動は一瞬でしぼんでいった。今まで経験したことのない濃密でかつ怒涛のような夏を経験した。
いや、一方でグループ展の打ち上げの時から、奇妙な夏だった。人生の最高潮と最低が一度にやってきた。重い足を引きずるようにして、仮室に帰った途端、意識を失ったように畳にたおれこみ、そのままの姿でひたすら眠り続けてしまった。
徹夜明けの躰は生家に帰るという約束を、さらに先のばしにした。父のさらなる長男への失望を思うが、行動はなぜか真逆なほうへ流れていく。父はそんな修作を待ちきれなかった。
翌日になると反射的にアルバイト先へと出勤していた。ビジネスホテルのベッドメイキングの仕事だった。夕方、ドロドロの汗みどろで帰ってくると、ドアに紙片が狭まっているのに気づいた。嫌な予感が一気に修作の頭のなかに現実となってふくらみ、ひろがる。
紙片をぬきとり、室内に入り、薄暗いひんやりとした玄関にたたずみ、灯りとりから差し込む光を頼りに、紙片を開くと、『チチキトクスグカエレ』と読むことができた。やっぱりか、と、嘘だろ、と、これは父が強引に帰郷させるためのドッキリなんじゃないか、そう誰か言ってくれ、室の奥から出てきて、ドッキリの看板を見せてくれ、とすら叫びたかった。
あわてて部屋にあがり、あるだけの金をかき集めて、ジーンズのポケットに突っ込んで、室の鍵をかけたかも思い出せぬほど、脱兎のごとく駅に引き返していった。