【前回の記事を読む】「日本人には創造性がない」と...欧米に後れを取ってしまうのはなぜなのか
第一章 失われた三〇年
《二》新規産業が起きない日本
日本は明治以降も模倣社会でした
それでは、日本の企業はどのようにして発展してきたのでしょうか。
まず、リスクが多い最初の段階は、国が官営の工場や鉱山を開発して、モデルを示すという方法をとりました。技術は、欧米の技術者の指導でした。その後、ある段階を過ぎると、この官営工場や鉱山を破格の安い価格で民間に払い下げました。日本は、このように政府の特別の保護と結びつくことで企業の発展を導き出した政商型の企業として出発しました。
明治に始まった三菱、三井、住友、藤田、浅野などはみな政商として出発しながら、鉱山で初期資本の蓄積を行い、財閥となり、その後、重化学工業などの産業資本へ転化していきました。つまり、明治の初期に生まれた財閥系企業は、時代の変化に対応して大きくなり、大企業(親会社)が子会社を作って時代の流れに沿ってきたのです。
金は親が出し技術はそのつど、欧米から導入するというもので、創造性を発揮する必要性はほとんどなかったと言えます。
たとえば、古河市兵衛は渋沢栄一などの援助により足尾銅山を起こし、鉱山王となりましたが、これは一九一一年(明治四四年)に古河鉱業合名となり、間もなく起こった第一次世界大戦のブームに乗って大きく成長し、旭電気、横浜護謨、古河電気工業などを設立しました。
そのうち、国内需要が急増していた発電機・発動機・変圧器・電話・通信器具などをドイツのジーメンス社の技術で生産するため、古河電気工業とジーメンス社が合弁して(古河の「フ」、ジーメンスの「ジ」をとって)富士電機製造を一九二三年に設立しました。
さらに、一九三五年、富士電機製造から電話部門が切り離され、富士通信機製造が生まれました。通信機はやはりジーメンスの技術によるものでした。
その後、同社は富士通と名を変え、一九五〇代後半からコンピュータ部門に進出し、わが国最大のコンピュータメーカーとなりました。この富士通からも、一九七二年に数値制御装置や産業用ロボットを製造するファナックが独立しました。
このように古河鉱業─古河電工─富士電機─富士通─ファナックなど、次々と成長性の高い分野に子会社が作られ、それが発展して来たというのが日本の企業作りの一般的な姿でした。