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私は時々、痴呆予備軍として、自分が半ば呆けた姿を想像することがある。そんな想像を続けていると、夢でも予見でもなく想像している自分の立ち位置も曖昧になってきてしまう。
とあるバス停にいる私は、バスに乗る客数を1人2人と数え出すのである。またバスが来て数え終わるとバスは出発し、それを終日繰り返す、そして、来る日も来る日もそれが繰り返される。『シジフォスの神話』の生活版のような光景であるが、その行為が宿命でも苦行でもなく、次第に私も私でなくなって、おぼろの霧に消えるのである。
有色だった自分が、無色になり、時間が止まったまま、景色だけがサラサラと流れていく……。医学の進歩は長寿を生み、長寿社会は、「童戻りと二度童」という現象を生む。そして「愚禿親鸞」ならぬ「愚禿自分」がそこにいる、ああ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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私にはとうてい真似ができないが、一番こころ安らぐ人物群のことを書こう。
100%善人などいるものか、と人は言う。そうかもしれない。一方、新聞もテレビも、丁寧にこういう姿を拾って伝えてくれる機会も多い。その気になって丁寧に番組や記事を拾えば、知ることが可能であるのが嬉しい。
報道や記事でしか知り得ないものの、端から見て「性善説」の塊のような人たちである。おそらく裏切りにも会ったろうに、弱者にひたすら寄り添い行動で尽くせる、何とも優しくしかもエネルギーに満ちた顔と表情を持つ人たちに出会える。正直、どうしてここまでできるんだろう、と思える。
言えるのは、目の前の不幸を見たら先ず行動が起こり、理屈は後から付いてゆくタイプで、理念の人ではなく、行動の人だということである。学生時代を考えてみても、私にはとてもできない。世界で、日本でも明治時代以降、ここに我が人生を捧げた人を全部知ることはできない。草の葉陰に消えることを覚悟で取り組んだ人も多かろう。
よく見ると、なぜかキリスト教系の人物が多い。なぜなのか、心優しい仏教・親鸞からは、この一途な救済行為が出てこないのである。他人の救済より、個々人の悟りで解決するのが優先されるようであり、救済は聖徳太子の時代からないわけではないが、救済行為が何か常識的で付属的な印象は拭えない。福祉一般の一般性しか持たないような気がする。全身で乗り出していないのである。