産後、少し落ち着いたころを見計らい、母のいる病室を訪ねました。宮本が、赤ちゃんが食道閉鎖症でなくて良かった、ダウン症はまだこれからきちんと調べないと、と言い始めると、

「宮本先生、本当にありがとうございました。あの時お顔の見えるところで付き添っていただいてホッとしたんです」

気丈な若いお母さんの言葉に安心し部屋を去ろうとした時、彼女にヒタと見つめられました。

「先生、わたし、あの人にあきらめて欲しくないんです」

えっ、何を……と思うまもなく、

「わたし、この子のことで、あの人の希望する小児外科をあきらめて欲しくないんです」

驚きました。若い妻は、夫の気持ちが障がい児をかかえたらきびしい小児外科を続けていけないと不安定になっていることを感じていたようです。彼女の大きな茶色の瞳がますます大きく潤んできたのは、突然瞳の全面に涙が湧き上がったからでした。

見たこともないような大きな涙が一粒ゆっくりあふれ頬を伝い落ちました。小児外科医として、体が震えるくらいすばらしい言葉を聞いたのはこれが初めてでした。彼女の口からぽつぽつと話される夫への思いやりに心が洗われるように感じました。そして最後にさらに、

「先生、わたし次の子必ずつくりたい……」

今お産が終わったばかりなのに、普通はその子のことや生活のことだけで頭がいっぱいになっているはずなのに……まいりました。彼女はしっかり未来をも見つめていたのでした。

その後、この赤ちゃんは、しっかりもののお姉ちゃんとともに、すくすく育っていきました。そしてあれから二年たち、さらに小さな可愛い妹も生まれました。

宮本夫婦は新築のお家に伺い、生まれたての赤ちゃんを抱っこさせていただいたのですが、奥様はかいがいしく動いており、大きな茶色の瞳を間近に見ることは叶いませんでした。

もしも(なみだ)がこぼれるように、

こんな笑いがこぼれたら、

どんなに、どんなに、きれいでしょう。        

金子みすゞ/「わらい」より

『こだまでしょうか、いいえ、誰でも。——金子みすゞ詩集百選』宮帯出版社、二〇一一年

(二〇二一年六月二十一日)