【前回の記事を読む】小児科医の不思議な縁。夏休み中の急な手術依頼を引き受けた理由は…

きらめく子どもたち

小児外科医の一生では、たどり着けないとしても……

手術当日の朝、宮本が部屋に入ると、X先生の顔がぱっと明るくなったように見えました。いつもの廊下での立ち話の時から、今回のようなことを何となく予感していた二人。

「宮本先生、よりによっておやすみのところ申し訳ありません」

よかった! 鼻から太いイレウス管が入っており頬はげっそりとこけてはいるものの、ニコッとそう言う彼の目には力があり、愛嬌がありました。

手術室に入るときには、「いいですよ、一緒に写真も撮ってください。宮本先生の本に載せられそうな話になってしまいました……」

手術には三時間ほどかかり、腹部全体におよぶ癒着からは赤ちゃんの時にひどい腹膜炎を起こしていたことがうかがえました。以前彼の書いた手記に、生まれてから六か月ほど入院していた、とありました。普通は生まれてすぐ人工肛門を造った後には退院し自宅で過ごすので、てっきりお母様の勘違いかと思っていたのです。しかしあながち勘違いとは言い切れない手術所見だったのでした。

四十一年前に手術した小児外科医にとって、いえいえ誰よりも彼にとって、命をかけた厳しい半年だったに違いありません。今回の手術にあたり、つてをたどっていくつかメールやメッセージで彼の主治医を探ったのですが、探り当てることができませんでした。

X先生はと言えば術前はもとより術直後からも、部下から来る問い合わせに答えるべく手元に院内用のPHSを置き、コンピューターで英文論文のチェックをしていました。日々回診で彼の姿を見るにつけ、この姿を四十一年前の執刀医に伝えたく思いました。手術を終え自宅での夜……宮本は目に見えぬ四十一年前の執刀医に乾杯しました。

「あなたの手術で救われた命が、ここで花を咲かせ実をつけていますよ」

自分が手術をした子どもたちの、自分より長い人生。小児外科医一人の一生ではたどり着けないとしても、命のバトンならぬ「医のバトン」をつないで引き継いでいけたら……。

〈追記一〉

その後、執刀医が判明いたしました。秋田大学で、小児外科講座もない草創期に小児外科をされていたF先生でした。宮本には面識がありません。秋田大学にその後できた小児外科講座に在籍されていた先生のお話では、F先生は十年ほど前に亡くなられたとのことです。もうX先生のことを伝えることもできません。ご冥福をお祈り申し上げます。

(二〇一八年八月二十五日)

〈追記二〉

あれから二年経ち、宮本の定年退職でF先生から渡された“医のバトン”を後輩に引き継ぐこととなりました。人生百年と言われる時代、赤ちゃんの時に手術を受けた人の一生を診ていくには四世代ほどの小児外科医がバトンを引き継ぐ必要があるようです。小児外科医は、自分たちの手術した子どもの行く末を見つめ、そこから得た教訓をもとに次の手術の工夫を考えてゆかねばならないのです。

(二〇二〇年七月二十日)